忘却のメモ

 昼間僕は「僕は」「僕は」「僕は」で忙しい。身体的な苦痛を感じることはあまり無いし、少々の痛みには僕は無頓着だけど、僕は朝から晩まで、夢の中でも、苦しさを感じている。いつも何か大事なものがぽっかりと欠けているような。内臓がゆっくりと引き摺り出されていって、自分の腸を眺めながら、「ああいつ僕は死ぬのだろう」と傍観しているような、どうせなら早くぷつんと意識が消えて欲しいような。魂がゆっくりとHPを擦り減らしていく。言葉なんてまるで敵だ、と感じながら、何か書きたいと思っている。何も書かない方がいいんじゃないかと考えることもあって、でも、僕にとって、生きられる場所は言葉の中にしか無い、生きていくには言葉を使うしかない、ということも分かっていて、言葉との付き合い方を、良好にしたいと願っている。言葉を銃のように感じて、使えば使うほど人も自分も傷付けるような気がして、言葉なんて捨ててしまえば、どんなに楽だろう、と、思うこともある。
 言葉よりも、人生や世界の根本的な意味や、究極の答えを望んでいる、と思う。けれど望むものは、それを望まないときにしか得られないと分かっている。言葉を意識から排除したところで、曖昧に辛いだけで、何処にも行けない。自分が自分であることや、感情、心の震えのようなものが欲しいと思っても、怠いばかりで動けない自分を嫌悪し、ぐずぐず、泥みたいな心拍に吐き気がしているだけで一日が終わる。意識的に努力していくより他、どうしようもない。でも、何処に向かって?

 言葉なんてくだらない、という気持ちはどこから芽生えたのだろう? 殆ど常に、僕は不安だ。今も不安。だから取り敢えずは薬を飲む。長年の悪癖の延長上で、合法的な生を営むものとして。サイレースを飲む。この薬はアメリカでは違法。言葉を厭う気持ちは、言葉が信じられなくなったからというか、言葉で傷付いてきたから起こるのだろうか。
 僕は世界の真実を知りたいと思っている、と思っている。でもそれは知識として知りたいのではなくて、多分それは恋愛と同じで、自分ではどうにも出来ない気がする。努力すればするほど、大事なものから離れてしまうんじゃないかと不安だ。だから、僕はただひたすら何かを待っているのだけど、何を待っているのか、自分でもよく分かっていない。
 僕は多分、言葉は邪魔だと思い込んでいる。言葉の力を信じなくなっている。言葉では、何処にも辿り着けない。言葉は伝達手段だけれど、今僕の言葉は全て宛先不明で、頭の中は、何処にも届かなかった言葉で混沌としている。

 言葉は意味ではなく、形だ。意味だと思うと、意味は大体曖昧なので、言葉を使うほどに曖昧な思考の沼に落ち行ってしまう。世界は無意味だ。全ては何の意味も無く、ただきらきらと、遠く、輝いている。美しくて、傷付きやすい夢のように。そして、ここに、僕と共にあるのは、こんがらがった夢の残骸だ。全てがべとべとして、重い。夢の残骸は、止め処なく、もう殺されきった脳を、飽きることなく踏みにじり続ける。
 この瞬間、僕はキーを叩いているだけで、他に何の意味も無いはず。確からしく思えるのは、僕はもう、失ってはならない何かを失ってしまったということ。でも、喪失感を確かに抱えていられる限り、多分、光の輝きの記憶を、完全に失わずにいられる。

君はもう君の残骸でしかない。
僕がそうであるように。

 機械やコンピューターは、今のところ完璧だけを目指しているから、生きていない。少し迷うくらいのコンピューターがあるなら、この世界を僕に代わって生き続けて欲しい。僕の代わりに夢見続けていて欲しい。

 完璧に機械に成り切ることには、人は喜びを覚えないものだと思う。機械以上に完璧になること。フォームが出鱈目なのが面白いのではなくて、自由さをある程度排して、というか殆ど全て排して、ほとんど完璧にお手本通りになること。完璧さからの、ほんの少しのぶれみたいなものに、人間にとっての自由さはあると思う。心という生き物が、僕の世界には常に関与していて、少しだけ迷うことが楽しいし、少しだけ迷いつつ書くことに、言葉の面白さがあると思う。形だけを完璧に作ってもよく出来た剥製にしかならない。最初から意味を詰め込もうとして、ずんずん自由意志を発揮すると、言葉はグロテスクになる。情熱と自由意志だけで作られた建て物は、建て物ですらない。きちんとした形を建築すること。意味を捨てて。

 楽器という物は、人間が生きている限り無くならないと思う。同時に、コンピューターで作る音楽も無くならないと思う。木で出来た楽器は変質しやすくて、人間みたいに欠点だらけのところが好きだ。完璧な楽器を完璧に弾くことには、何の魅力も無い。かと言って、出鱈目なアドリブが面白いとは、僕にはどうしても思えない。ある程度整然としていること。限定されてあること。ピアノの88鍵が少ないからと、97鍵に増やした有名なピアノがあるけれど、それなら100鍵でも200鍵でも足りない、という人が、いずれ出てくるだろう。ギターも6弦でちょうどいいと思う。7弦や8弦のギターもあるけど、6弦で十分に完璧なことは、過去の演奏で実証されている。音楽そのものが、完璧ではない。だから機械を使いまくっても、完璧な音楽は絶対に作れない。だから、音楽は自由だと思う。何を使ってもいい。けれど、際限なく多機能なコンピューターに溺れてしまうなら、逆に音楽制作は極めて不自由なものになると思う。

 どうせ死んでしまうのに、生きていて楽しいことのあれこれを夢想することは虚しいと言えば虚しいけれど、例えば恋愛している人を端から見たら馬鹿みたいだけど、馬鹿みたいな、現実なんてどうでもよくなるような感情の方が、冷めた現実意識よりずっとリアルなのだと、多分、全ての人が実感として知っていたと思うし、いまだ、全ての人が朧気ながら知っていると思う。過ぎていく時間を意識しないとき、過去も未来も無いとき、僕は永遠の中を生きられる。永遠の次元を生きている自分が、この瞬間にも常にいて、本当はそちらがリアルなのだと、僕は本当は熟知していると思う。
 過ぎゆく時間について考えるとき、また語るとき、それを活き活きと語れる人はいない。「全ては過ぎゆく」「全ては無常だ」と、それがあたかも動かしようのない事実であるかのように発言したとしても、間髪入れず「その通りだ!」と心から返答できる人はいないだろうし、きっと「それはその通りなんだけれども……」と、何かしら言外の含みを持たせた返し方しか出来ないだろうし、「全ては終わる」と言われても、それは時計を見れば誰でも分かる、あまりに単純な推論にしか思えなくて、何かもうちょっと違うような、蟠りを感じてしまうものだと思う。「全ては終わるんだ」という言葉を明るく発声できる人はいない。暗い感情しか伴わない発言が本当のことだとは思えない。人がある言葉を真実だと感じるとき、そこには必ず心が軽くなるような、しっくりした透明な感情が伴うものだと思う。よって、「全ては終わる」「何もかもがいつかは消えてしまう」という言葉は嘘だと、僕は考える。永遠はあると思う。
 何の為に勉強するのか? どうせ死ぬのに。何の為に辛い思いをして、生きていかなければならないのか? どうせ死ぬのに。死んだらみんな消えるのに。という言葉は、とても正しい。正しい言葉は呪いのようだ。どうせ死んでしまう、という言葉に取り憑かれると、僕は無気力になる。どうせ死んでしまうという言葉に対して、現実的な手段は何の役にも立たない。人と話して時間を忘れても、アニメを見て感動しても、ゲームをしても、ライヴに行ってお祭り気分に陶酔しても、どこか冷めていて、すぐに自分が死ぬことを思い返して落胆してしまう。ドーパミンがいっぱい出て、興奮することに、いつか死ぬという、動かしようのない現実を乗り越えるだけの力は無いと思う。恋愛の中で永遠を感じたとしても、永遠の愛のさなかに心中するのでなければ、愛はおそろしく平坦な現実の中に飲み込まれてしまう。お揃いのタトゥーを入れたりして、お互いを永遠に愛し合うと信じ込んでいる二人は、端から見ると馬鹿だけれど、馬鹿な内に死んでしまえば愛は、生活に傷付くことなく永遠だし、それを知っていて死を選ぶ二人は、いつまでも続く幸せな結婚生活なんかを夢見て、じきにお互いに幻滅し合う人たちより、ずっと現実的で、ある意味冷静だと思う。でも愛ゆえの心中だって結局は「どうせ全ては終わってしまう」「だから全てが終わらない内に」という、人間的な、日常的な意識の延長にあるのであって、永遠という刹那は滅多に訪れない僥倖だという早計から引き起こされるのであって、つまり日常的時間を、いずれは全てを取り込んでしまう、絶対的なものとして恐れていて、焦っているのであって、だからもし、そうじゃなくて、永遠なんて有り触れたものだ、という認識を、冷静な意識で保ち続けることができるならば、人は非日常的な興奮や、我を忘れさせてくれるようなシチュエーションを望むことなく、しかも文字通り完璧に幸福に生きられる、と僕は思う。冷静に。永遠の実在を知ること。

 日常的な時間。それは過ぎ去り、遠からず全てを無に帰してしまう、無情なものだ。日常的な時間を離れて、永遠を知るために、非日常的な経験を求める必要は無い。自分が人間であり、人間というものはこういうものだ、という意識を捨てるだけでいい。ちょっと書くのが遅いかもしれないけれど、これは僕宛てのメモだ。日常が好きで、日常を生きるだけで満足だという人の為には書いていない。僕は永遠を感じられないならば、生きることが出来ないし、生存は出来たとしても、それはただ過ぎ去る時間の中で心拍と呼吸が続いている、ということに過ぎなくて、そして僕にとってそのような生存の継続は、無意味で、何の意義も無い。乾いた世界でただ老いていくだけのことでしかない。僕はずっと永遠を求めている。ずっと。いつだってここにあるはずの永遠を。
 僕は、日常だって愛している。そこは好きな人に、現実的に出会える場所だから。好きな人がいないならば、僕は日常なんて捨ててしまえるんじゃないかと思う。そしてただ、永遠の中を永遠に生きることだけを望むだろう。一緒にこの世界の、時間の中で老いてける、大好きな人がいて、会うことが出来て、昔のことなどを話したり、未来について語ったりすることには、この世界を生きていることの喜びが凝縮されていると思う。

 他に、現実で生きていて、楽しいことってある? 僕は言葉や音楽が大好きだけれど、言葉も、音楽も、それらが僕にとって正しい領域に存在しているときには、それらは永遠の領域に属していると思う。ただ何もせずぼんやりとして、人間の意識から出ることは、僕には多分不可能で、言葉や音楽の助けを借りることでしか、僕は永遠には行けない。日常的な不安や焦燥感や劣等感や落胆は、意気込みだけで掻き消えるほど脆弱じゃないし、僕には本を読むことが必要で、書くことが必要で、音楽をが必要で、もしかしたら多分、身体も必要だ。僕は本を愛しているし、言葉を愛しているし、キーボードやディスプレイを愛しているし、ペンとノートを愛しているし、iPodやレコードやスピーカーを愛しているし、ギターやアンプを愛している。別に「愛」という言葉を使わなくてもよかったかもしれないけれど、仮にそれ無しでは生きられないものに対して「愛」という言葉を使うならば、現実世界の中ででも、僕は確かにいくつかのものを愛しているし、どうせ死んでしまう、この世界での、束の間の間柄だからこそ、それらが愛おしいと感じる。永遠はいつも死と共にある。永遠の世界では、誰もが、誰もに、何の恐れも不安も無く、出会えるし、共存できるに決まってるのに、何故永遠は、滅多に信じられないのだろう?
 人間としてのとても愛おしい感情を捨てることはしたくない。とても大切な人、とても大切なものたち、感動が全てを満たすこと、楽しいこと、読書や音楽、書くこと、楽器を奏でること、大切な物が古びていくこと、失っていくこと、老いていくこと、あらゆる大切なこと、あらゆる大切なもの、自分が自分であること。感情。それらを捨てることなく、完全な無意味を受け入れて生きていたい。脳内言語をシャットダウンして、身体から湧き出してくるものだけを信じること。ゼロになること。消失すること。それでも消えないものだけを信じること。
 「どうせ死ぬ」としたら、何ひとつ所有しなくて構わないし、何ひとつ所有することが出来ない。所有は人格の特権だ。そしてそれは錯覚だ。自分なんてもの、本当はいないんだから。全ては借りもの。身体だって、心だって、言葉だって。ギターだってキーボードだって、自分で考え出して作った物じゃない。みんな借りもの。
 「どうせ死ぬ」、だから永遠がある。死と永遠は必ずセットになっている。

 生は夢。死は真実。僕は物を食べる。けれど物を食べることの喜びは知らない。完全栄養食のゼリーかバーみたいなのだけ食べていたい。コーヒーは必須。煙草は好き。何も無くていいと思う。不安だって苦しみだって、別にあっていいと思う。僕が欲しいのは、毎日少しの時間でいいから、完璧に満足できる時間。そして完璧に満足した後にだけ訪れる完璧な安眠。短い時間でいいから死に近似していたい。50年前、グールドの指先から産み出されたピアノの音がスピーカーから流れ出していて、僕は薬で軽くなった身体で、その波を浴びている。手を翳すと、柔らかな時間を指先に感じる。薬は、脳細胞を殺してくれる。だから好きだ。
 うるさい音楽は静音に似ている。すっきりと物の片付いたデスクが欲しい。死の味を知りたい。これらあれらは徒労だし、積み重ねることは……知ることは心を窒息させること。徒労、……。徒労は好きだ。それは生きているということだから。生は徒労。うんざりして、自らが完全な可燃ゴミになるまで続く、モノクロな、怠惰な、繰り返し。

つまらない本を読むのが好き。

 ディスク。レコードは一枚一枚の重りのするドラッグ。薬になり得ないものは捨てる。軽やかな軽金属やアルニコ磁石や文字の屑が混じったようなジャンクなアルバム。……昔のアメリカ人がわざわざタイプライターで、重たいキーをかしゃかしゃ打って快楽を得ていた気持ちが分かる。英語はまだ、もどかしい。速く、速く書きたい。
 僕は麻薬を作りたい。音や言葉で。覚醒剤は要らない。私は本当は何も持ちたくないし、私の身体という道具を使って、使って、筋繊維まで燃やし尽くしたい。喉から血を流して、叫び続けたい。何も考えたくない。僕は、溺れていたい。

 孤独でいたい。自分自身で、僕自身でいたい。誰も知ることのない、小さな、僕の生と死。
 僕は、愛するために産まれてきた。何も愛せず、ただ眠気と怠さを覚える自分を、本当は一刻も早く殺すべきなのに。

 ここまで書いて24時間眠らずに脂汗の掻くような煩悶を続けていて、薬をいっぱい飲んだ。

 「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉があって、僕はそれをとても正しいと思う。誰かと同じ意味合いのことなら、誰でも書けるけれど、誰かと同じようには誰も書けない。言葉は形だ。形より深いところに、意味が隠れている、と思いがちだけれど、本当は、意味よりさらに深いところに、形がある。昔の偉い人の言葉を鵜呑みにするなら、言葉の形には、今の僕には計り知れない深さがある。僕は今、意味の次元に於いてしか、言葉を書けない、と思っている。本当の、日本語の形には、辿り着けない。日本語の姿が、今の僕には見えていないし、形に無頓着で、意味ばかりを追いかけながら読んで、書いている。詩だって、フランス語だって、その意味を知ることは簡単だ。辞書を引いて、言葉を違う言葉に移し替えること。
 意味より深いところに、形があって、形そのものが言葉の命なのだ、と考えると、僕は安心する。言葉は、確かにそこにあって、僕はその意味を汲み尽くせないことにいつも焦るけれど、そうじゃなく、形がただそこにあるというだけのことが、出発点であり終点である、と思えるからだ。形から入ればいい。ただ言葉の形が見えたなら、それでいい。音楽も、何はともあれ、音楽でしかない。その姿を丸ごと受け止めること。分析は、音楽そのものの姿とは何の関係も無い。

 書くことが、楽しいことになりつつある。

けれど疲れは骨の芯まで達していて、明日生きることをやめなきゃ、今日生きられない。