言葉(形)についてのメモ

このところ、あまり頭の具合が良くない。ぼんやりとしていて現実感が無く、さらに悪いことに『ひぐらしのなく頃に』の今年の新作を見ていた。『ひぐらし』自体は悪いアニメではないんだけど、あまり楽しめる心境ではなくて、暗い気分になってしまった。何しろ殺しの描写が続くアニメなので、気分が沈んでいるときに見ると、さらにダークな気分になってしまう。ダークな気分を緩和するために『徒然草』の続きを読む。狂人の真似をして通りを走り回れば、それは狂人だし、名馬の真似をする馬がいればそれは名馬だし、賢人の真似をすればそのひとは賢人なのだ、というところが気になって、もう一度読む。たしか、本居宣長も同じことを言っていた、と小林秀雄が書いていたと思う。つまり、その心意を真似るのは簡単だけれど、形を真似るのは、とても難しいことである、と。善人の心を持つのは簡単だけれど、善人の振る舞いをするのは、難しいのだ、ということだったと思う。本居宣長小林秀雄は、歌人についても書いていて、すなわち、歌人と同じ感動や感情を得ることは簡単だけど、歌人と同じ歌を書くのは難しいのだ、と。それには半分同意する。谷川俊太郎も、詩人とは美しい言葉を書く人のことだ、と言っていた。それはつまり、詩人に特有の心なんていうものは、最初から無い、ということなんだと思う。半分は同意しない。心情が無ければ、形を表すことは出来ないのだから。と、考えて、やっぱり、何だ、結局は形なんじゃないか、と思う。形にしなければ伝わらない。優れた心を持たない人に、優れた言葉を書くことは、まず出来ない。けれど、優れた心を持つ人に、優れた言葉が書けるとは限らない。そして、誰だって、優れた心くらいは持っているものだ。結局は、形にしなければ、何も伝えられない。うまく、形にする技術だけが大事なのだ。と思うと、僕は『徒然草』や本居宣長に全面的に同意することになる。形にする技術の中に、既に真意が含まれているのだから。中也も言っていた。詩を書くための勉強をするほどの人ならば、既にその人は何らかの内容を持っている人だ(と信じる)と。詩とは結局、表面上に表れた言葉でしかない。僕はそれを読んで、もし表面しか読まなければ、何だこんなものか、と思う。中也が書いていることだって、ちょっと読めば、くだらないといえばくだらない。でも、よく読むことで、その形…書かれたものから、中也自身の心に達することは出来る。「歌は味うものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努めることだ。」と小林秀雄は、そう書いていた。「言葉にしたい観念や感情」そんなものが言葉になるのではなく、言葉とは結局は言葉でしかない。でも、結局は言葉でしかない言葉を書くには、やはり心が要るし、どうしても伝えたい何か、が要る。まず僕は、どうしても伝えたい何か、に達しようと努力していた。伝えたいものも無いのに、うまいこと言葉が書けても仕方ないと思う。けれどその為に内面を探り続けるのは、実は順序が逆なんじゃないか、とこの頃は思ってもいる。僕は、いい言葉、を書くためにこそ、努力しなくてはいけないのではないのか、と思う。いい言葉……それは論理的で、数学的なものだ、と僕は思っている。そしてそこには、論理の破綻、も含まれている。実は、既に書くことはいっぱいあるのだ。心が言葉にならざるを得ないまで、待ち続けること、それもひとつの大事なスタンスだろう。でも、それよりも、自分が既に書きたいことを、形にする努力を続けること、それも同じくらい大事なことだと思う。何でもいい、どんなくだらないことでもいい。それをきちんと言葉にしていくこと。そちらの方が、ずっと実のあることなんじゃないかと思う。絵を描く人は、まず何より絵を描く。音楽家はまず何より、音楽を作る。では文章家はまず何より文章を書くのか? 書きたい内容をあれこれ吟味する時間が長すぎるんじゃないか? 何故ならそれは、本当に書きたい何かさえあれば、あとは書くことは簡単じゃないか、と言葉を信じすぎ、また自分の文章力を無邪気に信じ、嫌な言い方をすれば、文章を舐めているからではないかと思う。言葉とは、まず何より形だ。日常の中で、人はあらゆることを感じている。それを言葉にすることなく、ただ感じること、感じて、忘れないことは、それは文章家に限らず、何かを作ろうとする人にとっては、ある意味当たり前のことだと思う。ただ、それを、書くほどのものではない、と思っている人だけが、書かない。そして忘れてしまう。書くとは、言葉を書くことだ。当たり前だけれど、でも、書くとは「何かを」書くことだ、と思っている人は、僕も含めて、多分とても多いと思う。違う。書くとは「言葉を」書くことだ。僕は内面を探りすぎた。そしてそこは空っぽではないけれど、とても混沌としている、と思った。混沌の中から「何か」を探し出すことは、不可能だ、と分かった。混沌に形を与えるための「言葉」があって、初めて、心はその姿を現すし、同時に、書いて、言葉にして初めて、僕は僕の混沌を、多分、理解できる。自分の「書きたいこと」を信用するのではなく、それを書くための「言葉」の方を信用するべきだ。僕は「何かを」書くべきではない。何かを説明したところで、その何かは、語るに足りるものではないと思う。言葉にして初めて、本当の「何か」が現れ、形になるのだと思う。そう、思うようになってきた。だから僕は書く。無心に書きたい。無心に書くと、それは自然に論理的になるし、また論理的に書こうと努力するようになるし、きっとそこには、良い形が表されるだろうし、良い形にはたしかに良い心情が含まれていると思う。良い文章を書くこと、それは僕にはとても数学的なことだと思える。つまり、正確さが大事だ、ということ。あやふやな数学なんて存在しない。正しく書くこと。それが大事なことだと思う。意味ではなく、言葉を書くこと。いい言葉は、破綻している。破綻も含めて、正確に書く、ということが、何故か言葉には出来る。書きたい内容との整合性が付かなくなるところに、初めて、書きたい内容が現れる、ということがある。書きたい内容を探すのではなく、また、書く方法について考えあぐねることでもない。言葉をよく感じ、そしてそれを真似ようと努力すること。多分、それしか、書くにあたっては、僕に活路は無いと思う。何かしら、内容ありきで書こうとすると、それは必ず、僕の場合、平坦な文章になる。似せること。そして言葉を言葉のままに、面白く感じること。美しいと感じること。言葉に対する興味。それらが多分、今の僕に必要なことだと思う。それでこそ、無心に、書くことをとても楽しいと感じられるだろう、と思う。「いい内容」が頭の中に現れるのを待つのではなく。

いい言葉……、言葉を信じよう。英語やフランス語についても同じことが言えるんじゃないかな。意味から入るのではなく、そのまま形から入ること。きっと、根を詰めて、日本語訳と比較しながら学ぶのではなくて、もっと軽やかに、外国語の形そのものを、そのままに感じることが大切なのだ。日本語も同じ。特に、日本語には、もう慣れていると思い込みがちだから、それを意味的にばかり捉えてしまいがちだ。書かれている内容を、さっさと意味的に理解することに長けていて、形に注意することがおろそかになってしまう、ということは、特に自分の母国語に対する場合、とてもありがちなことなのではないか、と思う。意味ではなく、形を、深く感じること。意味として読むのではなく、言葉を、形として、形をしっかり掴むまで、また、形の向こうにあるものが見えるまで、よく眺めること。よく読むこと。形をそのまま感じられるまで、活字を、言葉や意味抜きでよくよく感じること。言葉を言葉抜きで感じる、って矛盾しているようだけど、多分、書かれている言葉を言葉で解釈することは、書かれた言葉を殺してしまう。だってそれは言い換えに過ぎない。言い換えられた言葉は、もう元の言葉とはかけ離れている。意味は二の次だ。例えば詩や小説に限っても、そこに書かれていることは、意味や内容の良さではないのだから。と言うより、言葉の形そのものが、既に意味や内容を含んでいる。でも、時には、意味や内容について吟味することも、楽しいなら、すればいいと思う。楽しい限りにおいては、どんな解釈だって、いろいろして、楽しめばいいと思う。解釈が全く無駄だとは思わないし、有害だとは尚更思わない。でも、それは、よく読んだ後でのことだ。最初からそれをやり過ぎると、言葉の形を見失って、言葉の美しさそのものを解体して、殺してしまう危険性はあると思う。よく読んで形を形として感じていられるようになった後では、とことん批評的になってもいいと思う。詩人や作家は、少なくとも意味や内容ありきで書いてはいないと思うけれど、というかそういう詩人や作家を、僕は素敵だと思うけれど、意味や内容については無自覚に書かれている場合が多いにしても、意味や内容を全く抜きにしてしまうと、100%その形を眺めることだけでは、形の魅力に気付くことさえ難しいことも多いのではないか、と思う。第一に、古典を読む場合がそうだ。意味も分からずに古文をただ眺めたって、まず、書かれている言葉のリズムをとても把握しにくい。内容や意味が、一見漫然とした言葉に、呼吸として含まれていることが多くある、と感じる。それから長編小説や、特に翻訳小説を読む場合、一文一文の美しさはさほど重要じゃない場合が多い。大きな流れこそが、小説全体のリズム、つまり長い呼吸での文章の美しさになっていて、どこを取っても名文だけで出来ている小説は、リズムが悪くて、読みにくい。ひとつひとつの文の形に拘っていると、全体としての形の美しさにを捉え損ねるかもしれない。一文一文はさほどの言葉ではなくても、全体としての言葉の流れが、美しい物語を織りなしている場合が殆どで、だから小説の一文一文だけを取り上げて、名文だとか駄作だとか言っても、あまり意味が無いと思う。ただその場合でも、ただひたすら読んでいる内に、内容が自然に浮かび上がってくる、という方がいい。批評とは、一文一文をあげつらうことではなく、よく読んで、そこから浮かび上がってくるイメージを精緻化することだと思う。だから結局は、話を戻すけれど、まずはそこに書かれている「言葉」に集中することが大事で、やはり意味や内容や批評は、その後に来るものだと思う。感じることが大事だと思う。部分部分の美しさに特化した小説もあると思うけれど、最初から「この小説は細部だけがいいのだ」と早々と判断してしまうと、きっと大事なものを見失ってしまう。僕が長い間、短歌や、短い詩や、漢詩などしか読めなかったのは、頭の中が考えでいっぱいで、長い言葉をよく眺めるように読むことが難しかったからだと思うのだけど、心に余裕が出来てくると、ただ感じるままに読むことが、ときどき出来るようになってきた。「形を眺める」と言うのは、「形の良し悪しを判断する」ということとは全然違うのだけど、僕はそのふたつを完全に混同していたと思う。考えでいっぱいの頭では、実際のところは、短い言葉でさえ、「この言葉はいいか悪いか」とすぐ判断してしまう。そして、意味としての良し悪しを即席に感じること以外出来ないでいることに、自分自身でさえ気付かずにいる。良し悪しがあるにしても、それは自分の頭で判断することではないし、判断するにしても、それはきちんと言葉を感じてからのことで、大分後回しにしなくてはならないと思う。考えて分かることは、本当に少ない。そのことは、最近まで分からなかった。少し読んで、いいとか悪いとか考える癖が付いていた。僕は焦っていた。焦っていると、長い小説の途中の頁をざっと眺めて、想像を膨らませる、という楽しみ方さえ出来ない。いちいちを判断している。判断して、いいとか悪いとか思って、とても不安になってしまう。長い小説でも、細切れにして読めば、短文として楽しめる、と思っていたのだけど。本当のところは、短い言葉を読むことこそ難しいのだと思う。すぐ分かった気になってしまうから。じっくり読む、というより、寧ろ、じろじろ見て、考えて、分かるとか分からない、とか言っていたと思う。意味を介さずに読むこと。意味を介さずに書くこと。そこにこそ意味があるのだと思う。でも、そのことが何よりも難しかったんだ。僕はとても不安だった。

最近僕は落ち着いてきている。『万葉集』はまだ読めないけれど、それはまあ、古語のフィーリングが、僕にはまだあまりにも遠いものだからだと思う。いつか読むかもしれないし、一生読まないかもしれない。