どうでもいいことばかり

 どうでもいいことにかかずらって生きている。今の環境のままではどうしようもない、という切迫した気持ちが、いつの間にか環境に慣れることにばかり精一杯になって、環境に慣れるということは、つまり鈍感になることだ、と気付いたときには、もう何も感じなくなっている。本当にどうでもいいことばかり。かと言って、精神の奥底に潜ろうにも、日々の何やかやが気になって、朝から不安で、慰みに薬を少しずつ飲んでいる内に、いつの間にか一日が終わっている。不安で、死にたいと思っている。でも、どうしても死にたいと思う気持ちは、段々起こらなくなってきた。それはいいことだ。でも、死を意識して、今どうしてもしたいことだけに熱心になる、という習慣も、同時に無くなってしまった。お金なんて要らない。僕は静謐が欲しい。
 いくら本を読んでも、文字の少し上を撫でるようにしか読めない。いつかは死ぬ。今日死ぬかもしれない。いくら物を大事にしたって、死んでしまえば無くなる。遺された人が困るだけだ。だから全ては処分しなければならない。僕の部屋にあって大事なものと言えば、ギターとアンプくらいなものだろうか。これは処分できなくて、遺言で、誰かに渡すよう、書いておきたいのだけど、貰っても困るだろうなあ、と思う人しか思い付かないので、死んだら売るように、と明記しておいた方がいいかもしれない。母は、仮に僕が先に死んだら、ほぼ確実に、僕の遺品はどれもこれも後生大事に保存しておくだろうと思う。僕が死んだ後すぐに、僕の遺品をせっせと処分する母の姿は想像できない。そういう性分なのだ。本は、たくさん持っているけれど、遺しておいて、特に困ることはないだろう。でも、やっぱり、死ぬまでには極力減らしておいた方がいいだろうなと思う。
 精神の、深いところに行きたい。精神には、深いところがあると、僕は知っている。脳や、知識とはまるで関係ないし、思考は必ず袋小路に嵌まる。身体なんてどうでもいい。
 恥ずかしい過去を全て精算しなければ、静けさには辿り着けないのだろうか? 多分、そんなことはない。僕は浅薄にならざるを得なかった。生活というのは基本的に浅薄なものだと思う。今僕は、生活の中でだけ、人と交流することが出来る。本当はもっと、内省的な言葉や、つまり文学や、音楽で交際したいのだ。一番の友人相手でさえ、会話の中では誤解されてしまう。ただ、長い付き合いになると、言葉にはならない、お互いの呼吸みたいなものが、時々通じ合う気がする。僕は、他の誰といるときでも、何ものかを演じている気がするけれど、少なくとも友人の前では、自分を偽ってはいない。他の人の前だと、自動的に、惰性で、気のいい人を演じてしまう。演じている限り、僕の心は困らない。僕の心は眠っているから。僕は相手の言うことを大して気にしていないけれど、相手は僕の言葉の上面を気にしている気がするので、いろんなことを避けて話題にしている。そしてうまく乗り切ると安心する。仮に友人の前で、僕が演じているとしても、それは偽らない僕を、出来るだけ率直に伝えたくて、でもそれが出来ないので、困って、とてもくだらないことを言ってしまうだけで、それも、僕のいろんな感情を分かって欲しい、とかじゃなくて、尊敬の念を伝えたいだけの気がする。僕は僕の表面上のあれこれを、とてもくだらなく思っている。何もかも捨て去った後の、理由もない「好き」だけが残ればいいと思う。
 勿体ないと思う気持ちとか、素養を積みたい、と思う気持ちが、僕を駄目にする。星たちは数多いけれど、僕はあれを奇麗だと思ったことがない。花も奇麗と思わない。それらを奇麗と、深く考えもせず、言った途端に僕は嘘吐きだ。僕はそんなロマンチックな人間ではなく、自分の感覚(体感)しか信じない、どちらかと言えば不感症の人間だ。
(中断)