日記

10月20日(火)、
寝苦しい一夜を過ごした。気がかりな夢ばかり見た気がする。朝、11時過ぎに、もそもそ起きてきて、明太子と一切れの半分の奈良漬けでご飯を食べる。胃が硬くなってる。そろそろ髪を切りに行かないとな、と思う。もう一年くらい髪を切っていない。

夜、元気が出ない。また家で焼き肉を食べて、ビールと梅酒を飲む。

 

10月21日(水)、
何にもしたくない。

悲しくて空虚な感じが続いていたけれど、夜明け前に少し楽になる。

夜。昨日の朝からずっと起きている。夕方に病院に行って、帰ってきてコンビニのおでんを食べたらへとへとで、死にたいなと思った。懈怠感が頭の中にも身体にも溜まっていて、でも、そうか死ぬんだな、と思ったら少し気が晴れる感じがした。身辺整理をして、遺書を書いて、と考えるのも、何だか心が浮き立つ感じで。それで、もういいかな、二週間分も薬があるから、好きなだけ飲んでしまおうかな、と思って、何となくiPhoneを見たら、友人からメールが来てて、急に気が変わってしまった。何だかにまにましてしまって、俺は、そうだな、あれだな、人間が好きだな、とかこの頃の僕にしてはたいへん奇妙な考えが浮かんで、友人からの無骨な感じのメールを読み返して、もう少しだけ生きよう、とかとても変なことを考え出して、心がひどく軽くなった。心って、何て簡単な造りをしているんだろう。

ちなみに、死のうと思って少し文章を書き始めてた。↓

死のうかな、と思う。ウィルスが流行っている間は、葬式も行われないから、死後のことまで恥ずかしく思わずに済む。葬式の時に顔写真が必須みたいになったのはいつの頃からだろう? 昔見た『八月のクリスマス』という韓国の静かな映画で、主人公の写真館経営者の男が、死期を悟って、律儀にも自分の葬式のために(だと思う)自画像を淡々と撮っていたシーンが、とても印象に残っている。ルー・リードの、死ぬ直前の、おそらく自分で撮った顔写真も、死がとても穏やかであることを伝えてくれるような、それ故にもう少しだけ生きていようかと、見ていて勇気づけられるような、やわらかな、力強い表情で写っていて、後に遺った人たちが、自然に、ちょっと隣の部屋に移るだけのルー・リードを見送れるような感じの、とてもいい写真だったと思う。ただの老いぼれた爺さんになって、みんなに、少し手を振る感じで死ねればいいのにな、と思う。速やかに忘れ去られたいな、と思うし、同時に、僕のことが、あまり悲惨な思い出として、誰の胸にも残らなければいいな、と思う。

↑、ということを書いてた。人全般が好きな訳じゃ全然無いし、そもそも人間一般のことなんて何のことやら分からないけれど、僕にはそういや好きな音楽家もいるし、好きな詩人も、作家もいる。これまで会ったことがなくても好きな人がいるし、もう会わないかもしれないけど好きな人がいる。という異様に前向きな気持ち。愛情とか、そういうものじゃないと思う。もっと、自分勝手な感情だと思う。僕が生きていて、好きな人たちが生きていて(あるいは死んでいて)、僕がたまたま生きているこの宇宙がとても好きだ、という感触。

宇宙の真理を知りたい、という気持ちもある。そして同時に中也が好きな気持ちも、ニック・ドレイクがすごく好きな気持ちもあって、そして生きていることの一秒一秒が、親しみに満ちている感覚もあって、でもそういう気持ちや感覚は、僕はすぐ忘れてしまう。

でも、やっぱり自信は無いんだ。僕は、生きていけるのだろうか?

生きていけるのかな。