雑記4

学校の白い帰り道を思う。

柔らかい、遠い、憧れ。詩にはずっと憧れている。言葉にずっと、届かない愛情を抱いている。

焼却場が好きだ。形あるものが崩れて塵となることに限りない愛おしさを感じる。大量のゴミをかき混ぜる、巨大なUFOキャッチャーのようなものを操縦する人になりたい。

自分なんてものは幻想なのだから、全部軽く捨ててしまえばいい。

自分が把握できる物だけを暫定的に所有すること。

僕は「何が出来るか」「結果として何が創れるか」ということに関してはあまり興味が無いのかもしれない。もちろん、全然興味が無い訳じゃない。でも、自分が無になる過程の方が好きだ。自分が無になったときにだけ、僕は本当に何かが出来るし、何かが創れるような気がする。

僕は、精神が健康であるときには、何かをじろじろみたり、疑ってみたりすることを一切やめてしまうし、何がどうあっても、ただ生きているだけでいい、ということが自明のことに思える。不信感や不安について、書く必要が無くなってしまう。

哲学書は、僕が本格的に病む前には、大学生の時に西田幾多郎の『善の研究』を読んだ程度だろうか。純粋持続が最上の時間だ、ということを西田さんは言っていて、その比喩として、熟練した演奏家の境地を挙げていたので、それなら哲学をやるより、文学や音楽を一生懸命やった方がいいなと思った。子供っぽい考えなのかな?

普遍的に美しい音楽なんて無いと思う。バッハの音楽だって、普遍的に美しいのではなく、バッハの個性が美しいのだと思う。そしてその個性は、音楽の世界の中にあるのであって、彼の伝記の中にあるのではない。

僕は求道者であるよりは、感傷家であると思う。

演奏の中に僕が消えていく。その瞬間がたまらなく好きだ。

精神の調子が悪いとき、頭が重いときに無理に考えごとをしていると、人間であることがつまらなくなってくる。大層なことを考えているつもりで、厭世的になってくる。段々眼の前のものが見えなくなってくる。音楽を聴けない(聴いても楽しくない)ときや、本を読んでも面白くないときは、大体碌なことが考えられない。音楽も本も人間が作ったもので、人間が作ったものに限りない愛着を覚えるときには、精神は健康だと思うのだけど、そうじゃないときは、まず殆どの場合、休んだ方がいいと思う。

声は素敵な楽器だと思う。自分に手と声が与えられていることは、本当に本当に有り難いことだ。手は楽器そのものではないけれど、楽器に命を与えられる。手を使って、書くことも出来る。書くこともまた演奏だ。道具、例えばギターやピアノや、キーボードやペンは、身体を拡張する。自由になれるし、泳げる。道具は、ある程度以上熟達しなければ、持つと逆に不自由なものだ。自由を感じられる程度に、道具をしっかりと身に着けること。しっかりと手入れしておくこと。

自分が最終的に天国に行くのか、地獄に行くのか、そんなことは知らない。今出来ることを精一杯やること。ただそれだけだ。

数日間、死について考えている。僕は何故、眼に見えるものや、価値や情報なんかに気分を左右されるのだろう?

ビートルズは世界だ。それからヴェルヴェット・アンダーグラウンドも世界だ。ニック・ドレイクは世界というよりは風景だろうか。木陰でギターを弾く、美しい指を持った、長身の青年。

本を読むこと。静かで、どきどきする、遠い感情。

ミンガスも、本当に素晴らしい、ミンガスの世界。

感じること。世界に入っていくこと。

快感の発作が起こるたびに記憶が消える。私は世界に没入していく。それだけでいい。

私は軽い軽い軽い存在。重い重い重い存在。重力のミックス。

全ての人にヘッドホンと、光と音に満ちたサウンドルームがあるべきだ。(そうすれば争いなんて無くなる。)

欠落を愛情として。

感じる、って一体何だろう?、とよく考える。静かな気持ちって一体何だろう?、とよく考える。それは、脳の作用? 違うと思う。何故か、僕は脳が気持ちの出所、と言う考えにずっと抵抗を感じている。

アニー・フィッシャーのピアノは、聴きやすい方ではないと思うんだけど、聴いていると彼女の息吹に触れられそうな気がする。

風と雲とが産み出す音。

日本語と英語とフランス語で、脳の使う場所(世界)が違う。

疲れたらすぐに仮眠をとること。

世界を整然と整理していく。

文学も音楽も、細かな点に拘ることが大切だ。

様々な見方。音楽の世界、としての世界の見方。あるいは経済的。あるいは感情的。あるいは数学の世界、としての世界。ひとつの事象に対しても、多次元的な、多分無限の見方がある。けれど、人間は多分まだ、有限の、数えられるほどの、世界の見方しか手に入れていないし、普通僕が生きているのは、人の感情や、感情的な言葉に色塗られた世界だ。言葉の世界は、言葉の世界で、独立している、と思う。「生活世界」は、何て複雑なんだろう、と思う。音楽の世界は純粋だ。数学の世界も(僕はそこには入ったことがないけれど)おそらくとても純粋。いろいろな純粋な世界、あるいは世界の見方があって、言葉の世界だって、本来はとても純粋。言葉は、いろいろな次元の世界(あるいは世界の見方)を統合することが出来る。そういう言葉の使い方は、とても楽しい。人の思惑や、疑念や嫌らしさを言葉にするのではなく。

生活世界も、決して悪いものではないんだと思う。ただそこが世界の全てだと思ってしまうと、世界は無限に窮屈になってしまう。世界には幾つかの(原理的には無限だけれど、少なくとも今現在の人間にとっては有限の、幾つかの)見方があって、全く同じ事柄であっても、幾つかの見方(多層的もしくは多次元的な見方)があって、それぞれの見方の中で、さらにいろいろな考え方がある。ひとつの見方とひとつの考え方だけだと、ひとつの事柄はただのひとつの、固定された(つまらない)事実としてしか見られない。いろいろな考え方が出来ると、世界は平面的な拡がりを持つけれど、幾つかの見方を持つとき、世界はとても立体的か、それ以上の次元のものとなる。多くの次元を持つ空間の中を、行き来し、泳ぎ、そしてそれらを繋ぎ合わせることが、僕の感情(あるいは僕の脳)には出来る。多次元的な世界を統合し、それを表現することが言語的な創造なのではないかと思う。表現手段は何でもいいけれど、僕にとっては、言葉が一番面白い。様々な次元・要素を縦横無尽に、自由に繋ぐことが出来るからだ。総合アートとしての言葉。本には、ひとつの、多次元的な世界が含まれている。僕は本(特に文学)が本当に好きだ。

幾つかの世界の見方。幾つかの世界がある。全部で幾つあるのかは分からない。経済的な見方(世界)もあるだろうし、生活的・常識的な見方(世界)もあるだろう。音楽の世界は実在することを、この間初めて実感して、僕は世界の多次元性について考えるようになった。「音楽の世界」は存在していて、そこはとても純粋だ。数学の世界もあると思う。チェスの世界だってやはりあると思うんだ。チェスの世界は将棋の世界とは、また違うだろう。世界には、いろんな見方がある。いろんな世界がある。

僕はいくつかの要素を取り入れた表現をしたいのかもしれない。言葉もそうだし、音楽も例えば、レコードとして創作する場合、アートワークも非常に大事になってくるし、ヴォーカルの入った音楽なら、文学的要素も非常に重要だ。音楽もまた、総合的なアートたり得る。音楽自体にもともと、楽譜に書かれた情報(旋律、和音、リズム)と共に音色(楽器の選択)や演奏、などと言った、幾つかの要素が含まれている。コンピューターを使ったり、偶然性を取り入れたりも出来るし、実験音楽や、前衛的な即興演奏もある。ライヴやレコーディングの過程でも、多くの要素が絡んでくる。

世界そのものがひとつの多次元的なアートなのだ、という見方もあると思う。数学は数学の世界で完結していて、それは素晴らしいことだし、さっき言ったこととは違うみたいだけれど、音楽は音楽の世界として、言葉は言葉の世界として、それぞれ閉じている。それぞれが全く違う次元にある、全く別の世界だ、と言い切ることも出来る。しかもなおかつ、それらは全て同じ世界にある。