日記

10月3日(土)、
9月はあまり元気ではなかったけれど、そう言えば死にたいほどの鬱には陥らなかった。7月にはまだ強い焦りがあって、8月には多分一週間くらいはひどく落ち込んでいたと思う。9月には軽い抑鬱状態が続いていたけれど、10月に入ってからは、もうまるで鬱だったのが昔のことのように感じる。何でも出来るような気さえする。

正午過ぎ、抑鬱感。

 

10月4日(日)、
午前2時、身体が怠い。マイルズ・デイヴィスジョン・コルトレーンのラスト・ツアー(1960年)の音源を聴いて目を覚ます。

6時頃やっと身体が軽くなり、頭も醒めてくる。

昼、何となく鬱屈した気分が続いている。

 

10月5日(月)、
昨日の朝から、ずっと抑鬱感が続いている。

10月は、高揚感と静けさと憂鬱が交互にやってくる。

朝からとても胃が痛くて、起きていられなかった。内視鏡で胃を見たとしたら、多分出血していると思う。最初腸が痛いのと区別が付かなかったけれど、全然お腹を壊してはいないので、どうも胃が痛いのだと分かった。胃痛は、僕にとっては、本当に珍しい。何年か前、ロキソニンを大量に飲んだ日以来だ。人生で二回目。特に変わったものを食べた訳ではないけど、抑鬱感が関係しているのだろうか?

今日はベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ(第32番)を何度か聴いた。暗くて大仰で、ピアノの低音(特に低音のフォルテッシモ)が苦手な僕は、傑作と言われているこの曲を、今まで通して聴いたことが無かった。2つの楽章を合わせて、大体25分の曲だ。第2楽章の中盤がとても繊細で、まるでふうわりと天使の羽が舞い降りてくるような、光に満ちた不思議な分散和音が続いていて、ここで救いがあるから、最初の暗さに意味があるんだと思った。

それから、何ヶ月か前からよく聴いていて、大好きな、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』を聴く。この曲は、何故か「難解」と言われることが多いのだけど、親しみやすくて、主題から33の変奏を進むにつれて、どんどん精神が開かれていくような気がする。

それからまたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番を聴く。僕はクラシックを聴くとき、出来るだけ正統派の演奏で聴きたいな、と思っているのだけど、アニー・フィッシャーは多分独特だし、グールドはそれに輪を掛けて独特だ。「正統」なんてものは本当は無いのだと思う。「楽譜通り」だと感じる演奏はあるけど、それは大体、僕にとって「つまらない」を意味している。演奏者の存在を強く感じる演奏が好きだ。どちらかと言うと、ベートーヴェンは、ピアノ・ソナタに難解な曲が多いと思うのだけど、それは僕が素人だからだろうか? 30番は、まだいまいち分からない。分からない曲を聴くのが面白い。

 

10月6日(火)、
昨日は夜にちゃんと眠って、今朝は6時前に起きた。寒い。

午前中、とても憂鬱だった。

『ディアベリ変奏曲』をまた聴いている。いろんな人の演奏を聴いた。2000年代以降の、かなり新しい録音が多いみたいだ。最近、僕はアルフレッド・ブレンデルの演奏がそこまで好きではなくなって、またアンドラーシュ・シフがとても好きになってきている。

午後、全然食欲が無いけれど、レトルトのハヤシライスを温めて食べる。ひどく落ち込んでいる。

午後3時頃、ベートーヴェンとバッハを聴いていて、急に音楽の世界があることに気付いた気がする。音楽は音楽の世界で、確かにそれは実在する。いつも僕が現実だと思っているこの世界もまた、確かに実在する。世界には、全く、お互いに重なることの無い見方が存在していて、しかもそれらは同じ世界なんだ。

夜、また焼き肉だった。この頃ずっと週一のペースだ。けっこうお酒を飲んで、いい感じにふらふらだ。音楽の世界があると感じて、何だか日本語を使うことがあまり怖くなくなった。僕は言語に対して怖れを抱きすぎていた気がする。現代の哲学って大体言語批判だ。でもそれは、ただ単に哲学者たちが言語に、それもネガティブな言語に嵌まりすぎているだけなんじゃないかと思った。