雑記5

昔から、多分14歳頃からジャズが好きで、よく聴くようになったのは多分19歳か20歳くらいの頃からだと思うんだけど、この頃やっとジャズの良さが本当に分かるようになってきた気がする。本当に、かどうかは分からないけど、少なくとも本当に楽しめるようにはなってきた。かなり長い間、名演と、そうでない演奏との区別があまり付かなかったんだけど、最近はけっこう分かる気がするし、最近までテナー・サックスとアルト・サックスの音の違いすら、聴いてもあまり分からなかった。テナー・サックスとアルト・サックスはほぼ同じ音域(一応、最低音はテナーの方が2音半だけ低い)を吹くし、音色も、僕が聴く限りでは、とてもよく似ていると思うので、最近まではぱっと聴いても、自信を持ってテナーかアルトかを言い当てることが出来なかった。さすがにトランペットとトロンボーンは、聴いてすぐに分かったけれど。テナーの方が空気を多く含んだ音がすると思う。アルトの方が緊密な音だと思う。アルトの方が音程の変化がくっきりしているし、吹く息がすぐに音になっている感じがする。僕は基本的に少し低めの音が好き、ということもあるけれど、音色がふくよかな、テナー・サックスの方が好きだ。自分でもサックスを吹きたいと思うことがよくあるけれど、その場合は断然テナー・サックスを吹きたい。それからアルトは飛ばして、ときどきソプラノ・サックスを吹きたいと思う。ソプラノ・サックスの音には、エキゾチックなような、魔法の国の音色みたいな、不思議な響きがあって、とても魅力的だ。見た目もクラリネットみたいで可愛いし。それにしてもテナー・サックスとアルト・サックスは見た目(大きさ)は全然違うのに、音色には見た目ほどの大きな差が無いのが不思議だ。それから、大体テナー・サックス奏者とアルト・サックスの奏者は、くっきり分かれていて、兼任する人はあまりいないと思うのだけど(ローランド・カークはアルト、テナーに限らずトランペットもフルートも何でも吹いていたけれど)、どういう理由があって、テナーを吹くかアルトを吹くか決めるのだろう?、とよく疑問に思う。やっぱり音色の好みなんだろうか? それとも大きい方が格好いいとか、逆に小さい方が取り回しがいい、とかそういう理由からなんだろうか? 運指はそんなに変わらないらしいから、両方を使い分けても良さそうなものなのだけれど。何となく、テナー・サックスの方が、吹く人の個性が出やすい気がする。それも、僕がテナーに惹かれる理由のひとつだ。スタン・ゲッツの音とジョン・コルトレーンの音とソニー・ロリンズの音は、同じテナー・サックスを吹いているとは思えないほど違う。アルト・サックス奏者のことはテナー奏者ほどには知らないから、まだ奏者による音の違いを知らないだけかもしれないけれど。アルト・サックスはアルト・サックスで、聴くのは大好きだ。ドラムもベースもピアノも、ジャズは本当に奏者によって個性が全然違うから面白い。ジャズ・ギターもこの頃よく聴くけれど、ギタリストによって演奏がまるで違う。演奏者の個性が分かるようになってくると、ジャズって本当に面白いし、いい演奏には、奏者の全てが込められているという感じがして、聴いていると、もう他には何も要らない、という感じさえする。

ミンガスの音楽はとにかく何でも聴きたいので、彼のアルバムをちょうど50枚(これを書いている内に51枚になった)、ダウンロードしてiPodに入れてる。iTunesにはミンガスの主要なアルバムが大体揃っていて(おそらく唯一のトリオ(ベース、ドラム、ピアノ)編成によるアルバム『Mingus Three』など、かなり聴きたいんだけど何故か無いアルバムもある)、それらを全てダウンロードすると、ちょうど50枚になる(1枚入れ忘れていた)。iPodでは、ひとりのミュージシャンのアルバムを50枚以上ダウンロードすると、そのミュージシャンのアルバムのリストにABC…の索引が付く。ひとりのミュージシャンのアルバムをそこまでダウンロードすることは、僕にしても滅多に無いから、索引が付くなんてことは、おそらく知らない人も多いと思う。今は、他に50枚もアルバムをダウンロードしているミュージシャンはいない。以前はジョン・コルトレーンビル・エヴァンスマイルズ・デイヴィス(みんなジャズのミュージシャンだ)を、たしか50枚以上ダウンロードしてたと思う。ジャズのミュージシャンは、とにかくアルバムが多い。何でだろう? ロックのミュージシャンは数年に一枚、アルバムを出すのが普通だと思うのだけど、昔のジャズのミュージシャンって一年に何枚もどんどんアルバムを出している人が多い。昔のジャズのミュージシャンって、早死にしている人が多いのに、それにも関わらず、膨大な録音を残している人が多い。今のジャズの人はどうか知らないけれど。ロックのミュージシャンも、しばしば早死にするけれど、その場合は数枚しかアルバムを残していないことが殆どな気がする。ロックのミュージシャンも、どんどんどしどしアルバムを出してくれたら嬉しいのにな。ジャズの場合は、一回のセッションやライヴ録音がそのままアルバムになることが多い、というのもアルバムが多いことのひとつの理由ではあると思うのだけど、それは別に、ロックだって同じことが出来るはずなのにな。クラシックには別の難しさがあると思う。例えばバッハを録音したら、まず間違いなくグールドの演奏と比較されてしまう。ドビュッシーを弾けばミケランジェリと比較されるし、ショパンを弾けばルービンシュタインと比較される。主要なレパートリーに限りがあるし、しかもあらゆる曲が、過去の偉大な演奏家によって既に録音されているから、今そこに何かを付け足すのは、とても難しいことなんだろうと思う。グールドなど、一昔前の天才たちが、録音を大量に残してくれているのは嬉しいことだけれど。ピアノに限らず、オーケストラだって、どんな曲でも大体、素晴らしい演奏の録音が残されていて、それは有り難いのだけれど。案外、クラシック・ギターは、これから新規録音に参加しやすい楽器かもしれないと思う。ギターはまだクラシックでは、どちらかというとマイナーな楽器というイメージがあるし、これから本格的なクラシックの楽器としてのイメージを確立していく段階にあって、過去の名盤というのが、おそらくかなり少ないと思うから。

ミンガスの『Oh Yeah』を聴いている。「Yeah」という単語は、綴りの感じからして、「イェア」か「イェー」と発音すると思っていたし、ミンガスもそう発音していると思うのだけど、邦題が『オー・ヤー』で、ちょっとダサいと思っていた。でも辞書で調べるとアメリカでは「ヤー」とも発音するらしい。(それによくよく考えてみると『オー・イェー』もあんまり良くないかな? どうだろう。)「ヤー」って何だか昭和を連想させる気がする。ビートルズの『A Hard Days' Night』(ア・ハード・デイズ・ナイト)という格好いいアルバムのタイトルの邦題が『ビートルズがやってくる ヤァ ヤァ ヤァ』なのは相当格好悪いと思うのだけど。それはともかく、このアルバムは、基本的にベーシストであるミンガスが、とても珍しいことにピアノとヴォーカルを担当していて、ミンガスのベースが好きな僕は、聴くのを後回しにしていた。でも、聴いてみると、ミンガスって、何を聴いてもやっぱりミンガスだ。ダグ・ワトキンス(多分「ワトキンス」ももう少し正確には「ウォトキンス」が近いと思うのだけど(後期:彼がジャズ・メッセンジャーにいた頃のライヴ盤では、アート・ブレイキーがミュージシャンの紹介アナウンスで「ワトキンス」と発音していた。多分「ワトキンス」が正式だと思う)、シャーロック・ホームズのWatsonは「ワトソン」か「ワトスン」で定着していて、まだその訳が定着していなかった頃のホームズの翻訳で「ウォトスン」と書かれていたのにはちょっと違和感を覚えたので、何というか、僕も勝手なものだと思う(後期:これも「ワトスン」でいいみたいだ。ものすごく原語に近くカタカナで書くと「ワートスン」らしい。ただし「ウォトスン」と発音する場合もあるみたい)。Kurt Cobainは一般的に日本では「カート・コバーン」と呼ばれているけれど、どう読んでも「コバーン」にはならないだろう、と思って、ずっと違和感を感じている。最初に訳した人が何を思って「コバーン」と訳したのか、と思う。それとも単に格好いい響きだから、いくつかあった訳の中から「コバーン」が定着したのだろうか? 例えばビョークは、ソロになる前のシュガー・キューブズ時代のCDのブックレットでは「ビョルク」と書かれていて、ひょっとしたら「ビョルク」が近いのかもしれないけれど(アイスランド語なので、全然分からない)、やっぱり「ビョーク」だよなあ、と思ってしまう。「コバーン」という響きは、いかにもハード・ロッカーみたいで、内気でアーティスティックなイメージのカートにはあまり合わないと思うのだけど、せめて「コバイン」くらいにして欲しかったな、「コカイン」(英語では「コケイン」に近い)みたいな感じで、と思うけれど仕方ない。ベートーヴェンを今更「ベートホーヴェン」と原語に近く発音しても誰にも通じないように、「コバイン」や「コベイン」と発音しても、ほぼ誰にも通じない。そういうところが、日本語の嫌なところだ、と、たまに思う。日本語が悪い訳じゃないんだけど。まあ、英語圏の人は逆に、日本語の発音が本当にひどかったりするから、何をどう読んだら「カラオケ」が「キャラオーキィ」となるんだ、と思うし、村上春樹も、有名になる前は「ミューラケァーミー」とか、いろいろ呼ばれていたりしたそうだし、どっちもどっちではあるんだけれど。ただ何故かDizzy Gillespieは昔から「ディジー・ガレスピー」と原語に近く日本語表記されているのが不思議だ。英語に詳しくないと「ギレスピー」と呼ぶのが普通だと思うのに。昔の日本のジャズ・マニアは拘りが強かったんだろうか? まあ、普通の会話や不特定多数に向けた文章では、仕方ないから「カート・コバーン」と言うけれど、何か悔しい。悔しいから、たまに「カート・コベイン」と書いてるし、言ってる)……括弧内がとても長くなってしまったけれど、ともかくダグ・ワトキンスが『Oh Yeah』の中では、ミンガスの代わりにベースを弾いていて、ミンガスほど迫力のあるベースではないんだけど、きちんといい仕事をしている、という感じがする。書きたかったのは、ミンガスってベーシストなのに、ピアノが何故か異様なくらい上手い。ピアノ・ソロだけのアルバム(『Mingus Plays Piano』)を出しているくらいで、しかもそのアルバムが、ベーシストが下手の横好きみたいに出した感じが全然しなくて、普通に他の有名なジャズ・ピアニストの演奏と比べても遜色のない、独自の個性を持った、非常にいいアルバムなんだ。詳しいことは全然知らないのだけど、ミンガスがピアノを本格的に習っていた、という記載はどこにも見付からないから、多分自己流なのだと思うけれど、作曲にはピアノを使っていたのかもしれない。ベースで作曲って難しそうだから。ふたつの楽器を同時に高いレベルで極める、ってとてつもなく難しそうだけど、やれば出来るんだ、と思うと、非常に勇気を貰える。まあ、それはともかくとして、『Oh Yeah』はミンガスの他のアルバムと同じように、ミンガスの世界観が十全に表現された傑作だと思います。ミンガスの音楽が好きな人にとっては、ミンガスがベースを弾いていないからと言って、敬遠すべきアルバムではないと思います。……あまり多くの人に興味がある話題では無いと思うし、それにやっぱり(寒いからかな)ここ二、三日、書きたいことがうまく書けない、というか、心に熱量が足りなくて、どことなく冷めた文章になってしまっていると感じるのですが。

この頃、カスピ海ヨーグルトが割に好きでよく食べてる。とてもとろとろとしたヨーグルトだ。逆にぼそぼそした感じのギリシャヨーグルトもけっこう好きなのだけど、あんまり売っていない。小さいカップに入ったのはたまに売っているけれど。僕は普通のプレーンヨーグルトはあんまり好きじゃない。カスピ海って、何処なのか全然知らなかったけれど、調べるとイランの北側にある、内陸の海だった。内陸だから塩水じゃないのかなあ? 湖だとしたら相当広い。地図で見る限りでは、日本列島と同じくらい大きな湖だ。全然知らなかった。ギリシャも何処にあるのか全然知らなくて、どうも僕はギリシャをローマと混同していて、てっきりイタリアの中にあるか、隣り合っているか、イタリアの沖合にあるのだと思ってた。イタリアとは海を隔てた半島にある国だった(つまり一応はイタリアの隣国だ)。ものすごく小さな国だというイメージがあったけれど、地図上でざっと見る限りでは、日本の本州よりやや小さい程度だろうか。Wikiで調べればすぐ分かるんだけど。ブルガリアは、さらに輪をかけて知らなくて、ロシアの近くなんだろうな、と思っていたんだけど、ロシアからはウクライナルーマニアによって隔てられていて、ギリシャの北隣にある国だった。全く知らなかった。地理には疎い。社会科にはほぼ全く関心を持てずにいたから。国や国の形って、偶然出来たもので、僕は「たまたまそうある」というものには、全く興味を持てずにいた。普遍的な知識だけが大事で、「たまたまそうある」ものは、次の瞬間には変化してしまうかもしれない。つまり不変じゃない。不変じゃ無いものを知識として知って何の意味がある?、と思ってた。それが、最近少し地理や歴史にも興味が、少しとは言え、出てきたのはどういうことだろう? 世界は夢のようなものだと思う。そして世界の、夢のような景色に出会いたいと思う。地球や、人間や、自分自身、という儚い、移ろいゆくものに、何だか愛着のようなものを感じるようになってきた。この頃よく書いていることだけれど、真理は真理で大事だと思うけれど、今生きている自分と、自分が今生きている世界に対する興味や親愛の情みたいなものも、とても大事だ、と意識するようになってきた。そりゃあ百年もすれば、人間世界は様変わりするだろうし、千年も経てば今あるほとんどのものは無くなるか、変化してしまっているだろうし、もっともっと未来、一億年も一兆年も経つ頃には、おそらく人類は、ほぼ確実に(かは分からないけど)いないだろうし、地球や、この宇宙すらも滅びて、無くなっているかもしれない。それでも、そんな移り変わりに関係なく存在し続ける真理だけに、僕は興味があった。昔からずっと。十年前に鬱になってからは、その傾向がさらに先鋭化された。真理からは懸け離れているから、と、それだけが理由ではないけれど、とにかく小説を読むことにさえ、興味が湧かず、動かない頭であれこれ考えること以外は、音楽にさえ興味が湧かなかった。興味が湧かなくても全然構わない、とは思っていなくて、小説や、詩や音楽を楽しめない自分を悲しんではいたけれど。今生きている自分や、この、地球の上の人類の営為としての、世界というものからは、遠く離れた気持ちで生きていたし、眼の前のものをいくら見詰めても、それがちゃんと今そこにある、という感じが全くしない期間が長かった。離人症とは違う。離人症は世界が全て書き割りに見えるけれど、自分の心や意識はちゃんと残っていて、生きている感じは、取り敢えず残っているものだと思う。僕は完全に離人症だった時期が昔あって、本当に辛かったけれど、自分の心には、辛いにしても、素直にいられたので、例えば文章表現は、すんなりと行うことが出来た。十年前からの鬱の間は、世界が嘘、というよりはずっと、自分が自分に嘘を吐き続けている、という感じがしていた。例えば眼の前にフィギュアがあったとして、フィギュア自体が嘘くさく見えるなら、それは離人症で、その場合、フィギュアが嘘にしか見えないにしても、フィギュアが嘘にしか見えない自分の心は、嘘じゃない。生きていることの虚しさも、嘘じゃない。辛いけど、辛いことは嘘じゃない。心を偽っている訳ではないから、離人症でも、言葉は書ける。少なくとも僕の場合はそうだった。けれど、ここ十年間の鬱の間は、例えば眼の前にフィギュアがあるとして、それが「自分にとって」何なのか分からない感じだった。好きなのか、嫌いなのか、捨てたいのか、考えても全然分からないし、そこにあるフィギュアが、僕から遠いのではなく、僕自身の心が、そこにあるフィギュアに全然届かない、という感じだった。離人症の時でも本は読めた。自分の内面の世界は正常に保たれていたので、活字を追って、想像することに、現実生活とは比べものにならない、大きな喜びを感じた。けれど、ここ十年の鬱では、自分の内面が、自分で全く分からない感じだった。本を読んでも、自分が何を感じているのか分からない。少なくとも意識の上では、活字を追って、想像力を働かせていても、何にも感じない。知力自体が甚だしく低下していた訳ではなかったので、どんな本でも、読めない、と言いつつ、本当に読めない訳ではなかった。一応どんな本だって読むには読めた。でもそれは読んでいる、とはとても言えない状態で、読んでいて、面白いのか、つまらないのかさえ分からない。一冊読み終えても、何にも残らない。感情がほとんど全く動かないので、読後感がほぼゼロで、読書の喜びとは一体何なのか、全然、見当も付かなくなっていた。読書だけじゃなく、生きていて、何にも感じなかった。感情が分からなくて、生きようと思わないし、死ぬほどの衝動性も無く、ただ単に生存していた。その間のことはよく書いたので省略するけど。数年間、どうせ死ぬから、と思って歯も磨かなかったし、入浴さえ殆どしなかったし、その何年間かの記憶は殆ど抜けてる。というか記憶すべきことが何ひとつ無かったと思う。それが、この頃ふと「生きてる」と感じる時間が増えてきた。どうしてそんなにひどい鬱になったのか、分からないし、どうして鬱が治ってきているのかも、確かなことは分からない。この頃思うのは、例え100年後に世界が様変わりするとしても、そのことは、今生きていて、今この世界が好きな自分には、何の関係も無い、ということだ。世界は、夢のようなものだと思う。世界とは、今現在成立している全てのことであって、それ以外のものでは無い。人間は、いや、僕は、本当にいろいろな世界観を持つことが出来る。僕は生きたい。その気持ちが一体何処から出てくるのか分からない。僕は小説と詩を書きたい。僕は本が好きだ。世界は説明できないことで満ち溢れている。何故ミンガスの音楽が(僕にとって)こんなにいいのか分からない。いかにもな説明も、多分出来なくはないと思うけれど。僕はギターを弾きたいし、歌いたい。ピアノももちろん弾きたい。いろんな楽器があって、コントラバスやチェロが弾けたらいいな、と思うこともあるし、サックスを吹きたいと思うこともあるし、トランペットを吹きたいと思うこともある。ハーモニカは比較的安いので、また始めてみようかな。作曲もしたい。もちろん作詞も。僕は言語が好きだ。英語と日本語とフランス語を精一杯身に着けたい。