雑記3

後悔する気持ちもある。何かは分からないけれど、何かを怖れる気持ちもある。人との寂しいすれ違いを感じるたび、それでも誰かを思うことには勇気が要って、ときどき僕はひとりになりたくなる。

自分のことを惜しいと思う気持ちって、どうしてあるんだろう? (ねえ、ただ美しくて面白ければ、それでいいと思わない?)僕はたまに、僕が本当に書くことに情熱を覚えていた頃の文章を、全部消してしまったことを、泣きたいくらい後悔する。それは本当に、嫌な感じで、今の自分を全否定したくなる。その頃の僕の気持ちは、全て文章に込められていて、それが失われた今、僕はその頃の自分の気持ちを思い出す手立てが何も無いから、もう、どこにも戻れないんじゃないかと思う。今僕は、自分が全く書けていないことを自覚する。書ける、ってどういうことなのか、僕は知っていたから。文章力が落ちた、というより、文章の次元が、ふたつ落ちた感じがする。今は平面だ。立体や、立体さえも超えた、訳の分からない次元って、言葉にはある。僕はまた、その場所に行きたい。でも、それはそう難しいことでもないんだ。自然な自分を取り戻せばいい。最近、僕は柔らかな、昔からの馴染みの自分自身を取り戻すときがたまにあって、そういうときには世界の全てを込めて言葉が書けそう。その瞬間は今はすぐにまた平坦な鬱屈した感情に押し潰されてしまうのだけど。でも段々、思い出しかけている。生きている、ってどういうことなのか。

ピアニストではやっぱりグレン・グールドが一番好きだ。グールドを聴いたことが無くて、グールドが一番有名な天才ピアノストだ、ということだけを知っていた頃には、てっきり、グールドって闊達で激しい演奏をする人なんだろう、と勝手に思っていた。何というか、天才のイメージ、、、安易なイメージとして。でも実際聴いてみると、ピアニストの中で圧倒的に地味な演奏をする人だ。地味、というか、地味ではないんだけど、まずペダルを、僕が知っているピアニスト(そう多くない…30人くらいだろうか)の中で、一番使わない。つまり音を一番響かせない。ピアノって、ペダルを多用すると、豪華で壮大な(広がりりのある)響きが出せて、まるで車のアクセルペダルのように、ペダル(一応書いておくと、一番右側のペダル。ダンパー・ペダル)を踏み続けるピアニストもかなり多い印象なんだけど、グールドは、仮にピアノが車(でペダルがアクセル)だとしたら、世界で一番のろい運転をするピアニストだと思う。音を響かせない。そして、一音一音が、まるで昔の、ピアノを模したMIDI音源の音みたいに硬い。柔らかくて幻想的な演奏が持ち味の、とても優しいタッチで、ノイズ成分の非常に少ない音を出すピアニストってとても多くて、例えばアンドラーシュ・シフは鍵盤にそっと指を落とすような軽い打鍵感で、「レガートで(歌うように)弾く」と本人も言っているし、シフ以上に、例えばマウリッツィオ・ポリーニのピアノの音は、まるで弦が金属じゃなくてナイロンで出来ているんじゃないかと思うほど柔らかい。スヴィアトスラフ・リヒテルもまた伝説的な天才ピアニストで、名前もすごそうな感じだし、さぞ豪快な演奏をするのだろう、と思っていたら、夢のようにメルヘンチックな優しい音で、少しびっくりした。他にも、柔らかな音で弾く人は多い印象で、最近のピアニストはあまり聴かないのだけど、たしか僕と同い歳で、とても活躍しているカティア・ブニアティシヴィリというピアニストが、髪を振り乱して、手を高い位置から振り下ろして弾くので、がしがしした音を出すのかと思いきや、特に録音では包容力のある感じの、甘い優しい音で演奏していたし、彼女を含め、多くのピアニストが、スタジオ録音では多分ミキシングの段階でかなりリヴァーブをかけていて、壮大さや、夢心地の空間を演出している、と思う。僕が知っているピアニストの中で、グールド以上に硬い感じの音を出す人は、アニー・フィッシャーだけで、フィッシャーの場合は、まず使っているピアノが違う(スタインウェイではなくベーゼンドルファー)というのも大きいと思う。少し神経質で内気な感じの音だ。ギターで言えば(めちゃめちゃ分かりにくい例えだけど)、多くの人が使うスプルース製のギターではなく、マホガニー製を使っているという感じ。マホガニー製のギターって、よく音が優しい、と言われるけれど、優しいと言うより単に響かないだけで、音色自体は神経質な感じだと思う。暗くて、内気で、まるであまり声が出ない人が、掠れ声でぼそぼそ歌うような感じが、マホガニー製のギターにはあると思うし、ベーゼンドルファーのピアノにもあると思う。美声じゃなくて、ちょっと喉が詰まったような硬い声の感じ。僕はそれが好きなんだけど、やっぱり朗々として、よく響く音を求める人の方が、おそらく多いだろう、とは思う。ともかく優しくて、丸くて包み込むような音で、人をうっとりさせるような音で弾くピアニストは、とても多いと思うし、その程度に差はあるとは言え、大抵のピアニストのアルバムには、まるでお風呂場で弾いているようなリヴァーブ(エコー)がかかっていると思う。その方が聴き心地の良い演奏になるし、いわゆる、いい音、になる。ピアノに限らず、ロックやポップのアルバムでも、ヴォーカルには(程度の差はあれ)、おそらく機械的にリヴァーブをかけていることが非常に多くて、その方が断然うまく聞こえるし、また、ヴォーカルに限らず、曲全体にリヴァーブをいっぱいかけた方が、ドリーミーだったり、迫力があったり、壮大な感じがしたりして、非日常的な音楽空間を演出することが出来る。それが悪いことだとは全く思わないし、寧ろ適切なリヴァーブの処理は、音楽を完成させるにあたって、多くの場合、ほとんど不可欠なプロセスだとさえ思う。僕は個人的に、いかにも機械的にリヴァーブをかけている、という感じよりは、スタジオの自然な空気感や、ピアノやギターの楽器そのものの響き、を感じられるアルバムの方が好きで、どちらかというと、狭い空間を感じる録音の方が好きではあるけれど(ニック・ドレイクのアルバムをその代表格として)、例外ももちろん、かなりたくさんあって、例えばゲームやアニメのBGMを、僕は好きでよく聴くけれど、そのファンタスティックな、また広大な世界観に浸るのには、もちろんリヴァーブがたくさんかかっていた方が、ずっといい。ニック・ドレイクの曲の場合は、録音したスタジオがとてもいい、という感じがする。音が本当に美しく響くスタジオで録音している、という感じがする。少し前に、アリーナ・イブラギモヴァというヴァイオリニストのアルバム(バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』)を買ったのだけど、まるで電話ボックスくらいの広さの録音ブースで弾いているような、ほぼ全く音の響かない録音で、素晴らしいヴァイオリニストの、素晴らしい演奏なのに、せっっかくのヴァイオリンの音の良さが生かされていない、と感じた。彼女はグァルネリウスを、おそらくメインで使っていて(世界的なヴァイオリニストとしては珍しく、グァルネリウスよりずっと安いヴァイオリンもしばしば使っているらしい)、多分そのアルバムも、グァルネリウスによる演奏だったと思うのだけど、グァルネリウスの澄んだ、瑞々しい響きが、うまく録れていないと思った。僕はストラディヴァリウスより、グァルネリウスの方が、基本的には好きだ。この頃は、ストラディヴァリウスの、少し詰まったような音も、けっこう好きになってきたけれど。ストラディヴァリウスと言ってもいろいろあるし、演奏者によって音が変わるから、一言で好きとか嫌いとかは言えないのだけど。ストラディヴァリウスはいかにもヴァイオリンらしい、叙情的で、胸に染みいる、夕焼けのように湿っぽい音がする、と僕は思っていて、グァルネリウスは、どちらかというと朝焼けのような、澄んだ音がすると思う。あんまり叙情的な感じのヴァイオリン演奏は、今も少し苦手だ。僕はアリーナ・イブラギモヴァの演奏を、10代の時にテレビで見て(たしかアリーナ・イブラギモヴァも10代か20歳くらいだったと思う)、すごいと思って、ずっと名前を覚えていたのだけど、アルバムはあんまり良くないと感じて、寂しい気がした。YouTubeで見た方が、とてもいいと思ったし、それは多分、ヴァイオリンの音って、コンサートホールの響きの良さによく合う場合が多いからだと思う。ヴァイオリンは、スタジオ録音の場合でも、少し拡めのスタジオの方がいいんじゃないかと思う。クラシック・ギターの演奏もよくYouTubeで見るけど、ギターの音はとても親密な響きで、部屋で弾いてる動画もよくあるけど、全然物足りないとは感じなくて、寧ろギターが寄り添ってくれる感じで、いいなあと思う。クラシック・ギターの録音は、リヴァーブをかけ過ぎている、と感じることが多いけれど、ヴァイオリンは少し広くて、響きの豊かな場所で録音した方がいいと思うんだ。……話が回り道したけれど、グールドのアルバムは、音が、空間的にとても狭くて、聴いてて一瞬でうっとりするような演奏ではなく、ピアノの独奏のアルバムとしては、最も感傷や夢心地から遠いと思う。ピアノ演奏のアルバムには、コンサート・ホールを連想させる録音が多いと思う(コンサートをそのまま録音したアルバムも多い)のだけど、グールドの演奏は、いかにもスタジオの中で録音した感じがする。グールドがすぐそこで弾いているような感じがするし、内省的で、ものすごく淡々としているところが、僕は大好きなんだけれども。……そう、とても淡々としている。ピアノの演奏ではアーティキュレーションが最も大切で、音色やテンポ設定などを除けば、アーティキュレーション、つまり音の強弱や、間の取り方、表情の付け方に、ピアニストの個性や、天才性やらが、一番よく表れると思うのだけれど、グールドの演奏は、アーティキュレーションよりも、テンポの方をずっと重視している感じで、ピアニッシモもフォルテッシモも使っていなくて、終始淡々としていて、ドラマチックさとはほとんど無縁だと思う。僕は内田光子のピアノ演奏をこの頃よく聴くけれど、彼女の演奏は、曲の始まりは、音量を上げたくなるほど静かだったり、盛り上がる部分では、逆に音量を下げたくなる感じで、けれども感情任せ、という感じもしない、知的さと情熱が、最高のバランスで融合している感じで、独特の、少し間違うと演技っぽくなりかねない絶妙な間の取り方も、きちんと計算されているような、素晴らしい演奏なのだけど、グールドの演奏からは、そういう、一聴してすぐ分かる、情熱や感情の上下は排されている。代わりに感じるのは恍惚と冥想だ。……グールドのことを、ああでもない、こうでもない、とは書けるけれど、ではどうして僕がグールドが好きでよく聴いているのか、うまく適格に説明できない。一番個人的で、親しみを感じる、という抽象的なことは書けるけれど。しばらくグールドを聴いていなくて、久しぶりに聴くと、とても懐かしい場所に戻ってきたような気がする。かと言って別にアットホームな演奏でもない。それどころか最も生活感情から離れていると思う。と言っても、人を突き放したところはまるで無いし、超然としている訳でもない。ともかく僕はクラシックのピアノ演奏ではグールドが一番好きなんだけれども……。グールドは非常に若い頃(20代半ば)は、ほんの少し、やや速い、透明な細い川が淀みなく流れていくような演奏をするのだけど、30歳の頃にはもう老境を感じさせる、詫び寂びを感じさせるような、深く透明な境地を感じさせるような演奏をするようになっていて、他の多くのピアニストと違って、若い頃と晩年で、驚くほど演奏のクオリティに差が無いと思う。映像で見るグールドは、若い頃も50歳の頃も、頭の回転が異様に速い感じで、大抵上機嫌でやたら喋るのだけど、もしかしたら、思索するときや演奏時の没入状態や、静かでどこまでも深い精神性と、それでちょうどバランスが取れていたのかもしれない。グールドは多分、生きているだけ、それで善いんだ、っていう明るく澄み切った境地に、早い内から入っていたと思う。自分の私生活の悩みや苦悩を、演奏に反映させるタイプでは全くないし、表面的な怒りや焦りや不安の感情からは抜け出ることが出来ていた、という気がするなあ。その上超俗的でもなく、また厭世的でもない。グールドは潔癖症だし、他人との接触をあまり好まなかったことは有名だけど、外出先から自宅の犬に向けて送った手紙など、温かくてかわいい。人生に対する愛情と好奇心に満ちた人だなあ、と思う。芭蕉が言った「高く心を悟りて俗に帰るべし」という言葉を、本当に実践できていた人のような気がする。グールドの演奏には、感傷的なところが(全然ではないけれど)無いのに、どこか人生の終わりを感じさせるところがある。生活のにおいがまるでしないからかな。それとも僕がそう思うだけなんだろうか。ニック・ドレイクの音楽と並んで、僕はグールドの音楽を、死ぬときには流していたい、と思っていて、何度か自殺未遂をした中で、一度はニック・ドレイクを流したし、一度はグールドの『ゴルトベルク変奏曲』を流した。まあ、グールドを流していたおかげで、真夜中、浴室で血を流しすぎて、もう立てなくなっていた僕を、父が見付けたんだけど。ニックの音楽もグールドの音楽も決して暗くはないし、暗い音楽なら他にいくらでもあると思うんだけど、ニックやグールドの音楽は、生活の延長じゃなくて、まるで普段は見えない、生活の彼方(別次元?)で鳴っているみたいだ、と感じる。「終わり」を感じさせる、と言っても、少し妙な言い方かもしれないけれど、まるで希望みたいな「終わり」を感じるんだ。生活が終わったところで鳴っている、と同時に彼らの存在をとても近くに感じられて、彼らの音楽を聴いていると僕はいつも、彼らの温度と生命の鼓動みたいなものを感じる。ニックやグールドが確かに今も(多分、永遠の領域で)、存在していて、生きていると感じる。例えば最近のアンドラーシュ・シフのピアノ演奏からは、確かに非常に高い精神的な到達を感じるし、優しさにも満ちている、という感じを受けるのだけど、シフに対して、僕は何故かあまり親近感を感じない。シフは、多分神さまを信じている訳ではないと思うのだけど、とても敬虔な、人間を超えたものに対する愛や、例えばバッハを弾くならバッハへの敬愛の念を純粋に持って演奏している、と感じるし、シフの演奏はいつ聴いても、天国的だなあ、とは思うのだけど、でもシフは、言い方はとても悪くなってしまうけれど、現実に眼の前にいる、地上の人に対しての愛情や親しみの念は、少なくとも演奏時には、あまり持っていないんじゃないか、という気が、僕はしてしまう。それもまた錯覚かもしれないんだけど。偉大なピアニストとしてのシフは感じるけれど、良くも悪くも、ひとりの人間としてのシフは、あまり感じない。と言うと、まるで文芸評論家が若手の小説に対して「人間が描けてない」と言うときのような、生活臭のするリアルな人間像を、僕が求めているみたいだけれど、それは無論全然違ってて、僕がセンチメンタルなだけかもしれないんだけど、そして単純に僕の好みでものを言っているだけかもしれないんだけど、神経質な優しさとポップさが、シフの演奏にはあまり感じられない。そんなもの、別に無くてもいいと言う人も多いだろうし「神経質な優しさとポップさ」という言葉にしても、うまく言えてはいないと思うんだけど。言い換えると、現在を生きている、意識のある自分、という感じかなあ。ただ、前にも何処かで書いたけれど、シフの最近のフォルテ・ピアノ(簡単に言えば、現代のグランド・ピアノが完成する前の、古い型のピアノ。音が小さくて、あまり響かない)での録音は本当に素晴らしいと思う。特にシューベルトの演奏が素晴らしくて、まるでシフ自身が、歳を取ってから、子供時代の思い出をゆっくりと振り返って懐かしんでいるみたいな、優しさと温かみを感じる。シューベルトの音楽自体にも、童心が強く含まれているのが、フォルテ・ピアノの軽い音だと、よく分かる感じがする。グランド・ピアノの莊重な音だと、シューベルトピアノ曲は、童心と言うより、快活で勇敢だったり、憂鬱だったりする青年の心という感じがして、それがとても合う場合もあれば、ちょっと豪快すぎると感じることもある。低音部(特にトレモロ)が、グランド・ピアノだとどうしても重すぎるし、フォルテ・ピアノだと非常に美しく儚げに鳴る、高音部のピアニッシモが、グランド・ピアノだと、あまりにくっきりと発音されてしまう気がする。……ただ、それでも、何だろうな、シフは温厚で優しすぎるんだろうか? 自然な、今生きているシフの存在は、あまり強く感じない。ただ、優しい、子供の心を持った(匿名的な)おじいさんの影が見えてしまう。……演奏家の個性は、実際に弾いているのだから、感じやすいものだけれど、もちろん作曲家や編曲家の個性も、音楽からは強く感じる場合があるし、匿名性しか(僕には)感じられない場合とがある。匿名的でも好きなことだってある。でも音楽は基本的に、音楽家の個性や特有の世界観を感じられるから面白いのだと、僕は思う。文学にしても。翻訳のミステリー小説みたいに、面白ければそれでいい、という場合もあるけれど。……グールドには個性がある。個性、というと、単に人とは違った、変わった部分、と受け取られることが多いのではないかと思うのだけど、僕は個性とは運命、というか、体温みたいなものだと思っていて、心臓が鼓動することや呼吸すること、ただ生きているということが個性だと思っていて、つまり自分がただの自分であることが、人との差異以前に既に個性だと思っていて、(つまり誰しもが孤独なのだから)誰しもが原理的に完璧に個性的だと思うのだけど、今、ただ生きている自分を、ただ生きたまま表現するのって、本当に難しいことだと思う。ピアノが上手くなれば上手くなるほど、上手い演奏は出来ても、自分自身が本当はどう弾きたいのか分からなくなってしまうことって、本当に、とても多いんじゃないかと思う。芸術表現に限らず、生活だって、自分自身が、ただの生きたひとりの人間であることを忘れずに、きちんと自分が今を生きている実感を保って生活するのは、多分、とても難しいことなのだと思う。僕は昔は全然そうは思わなかったのだけど。自覚的であること、目覚めてあること。それは言葉で言うほど、また言葉ですぐに理解できるほど簡単なことじゃないと思う。他人の内面は僕には分からないけど、けれど他人が外面的に表したもの、表現に関しては、その表現が個性的かどうかは、ある程度分かる。もちろん、個性を表すのには技術が要るし(例えば僕がアラビア語で詩を書いたって、そこに個性は表れようが無い)、表現されたもの自体が難解な場合もあるし、僕に見る目が全然無い場合もあるけれど。何にしろ、表現で大事なのは個性だろう。コンピューターには無くて、人間にはあるもの。テクニックではなく、ひとりの人間としての運命、体温、今生きているという実感、そして自分だけの記憶、思い出、大切なもの、好き嫌い、神経質さ、拘り、羞恥心、……つまり奇抜さとは何の関わりも無いもの。個性なんて要らない、という考え方もあると思う。真理や、普遍的な学問や、社会的地位や、趣味を楽しむことや、自分を高めていくことが大切なのであって、別に自分が自分であるという実感なんか無くたって生きられる、という考え方もあると思う。それに、自分が今ここに生きている独自の自分であること、って、繰り返すけれど、言葉では簡単そうだけど、それを実感することは、とてつもなく難しいことだと思う。ある意味ではとても簡単。何にもせずにいても、ふと生きている実感に包まれることはあるし。でもある意味では、非常に難しく、例えば、今のコンピューターには、今生きている自分を実感し、意識することは、おそらく不可能だ。未来的にはどうか知らないけれど。コンピューターには、とてつもなく高い能力を発揮する分野があって、例えばもはや人間はコンピューターにチェスで勝てないけれど、しかしコンピューターには、チェスで勝った喜びとか、一手一手に精神の全てを懸ける、という感覚は無いだろうと思う。ピアノでもそうだ。コンピューターだってもうピアノくらいは弾けるだろうけれど、コンピューターにとって、自分が弾くピアノの一音一音は、自分に何の関係も無い。他の例を挙げると、コンピューターは、読書をしない。膨大な本の内容を一字一句違わずに記憶することは出来ても、その一字一句は、コンピューター自身にとって、何の意味も持たない。人間も、ただ書かれた内容を記憶するだけだと、コンピューターと同じだ。それは読書ではなく、ただのインプットだ。タチコマ(『攻殻機動隊』に出てくるロボ)は読書を楽しんでたけど。(多分、僕は、どちらかというと、私的な楽しみとして本をよく読む人が好きだ。例外は多いし、本なんて読んでも読まなくてもどちらでもいいと思っているけど。それから音楽が好きな人も、多分好きだ。本にしても音楽にしても、個人的な拘りを持って、読んだり、聴いたりする人が好きだ、と思う。楽しければいい、とか気持ちよければ何でもいい、とか勉強の為に読む、とか聴く、とかじゃなくて。特定の本や音楽をこよなく愛していたりしている人には、何だかそれだけで好感を持ってしまいがちだ。多分、僕はマニアックな人、拘りの強い人を好きになりやすい傾向にある。繰り返すけど、例外はかなり多いのだけど。それに、そういう表面的に分かりやすい部分にだけ、その人の個性が表れている、とは全く思わないけれど。内省的な人が好きだ、と一応は思うけれど、他人の内省は覗けないし、それに何も、本や音楽だけが人生ではないし、一見何の拘りも無く生きているように見える人が、内省的には素晴らしく美しい世界に住んでいる、ということだってよくありそうだ。第一、僕だって、長いこと本や音楽を楽しめなかった期間があったのだから、本を読まなかったり、音楽を聴かない、というだけで人間性を測られてしまったのでは、僕にしても困る。読書人ぶったり、音楽通の振りをしたがる人は苦手だ、と言いたい気持ちもあるけれど、読書人や音楽通の振りをすることから、本当に読書や音楽が好きになることは多いだろうし、背伸びって時には大事なこともあるし、僕自身かなり、大した知識も全然無いのに、本や音楽に詳しい振りをしてしまいがちだ。表面的な言動や見た目や趣味嗜好で測れるものなんて、本当は何ひとつ無い。ただ僕は自分を測る。自分(の調子)を測るための指標として、本や音楽を楽しめるかどうか、自分に強い拘りや愛着心があると感じるか、ということは、かなり大きいのだけど……。何言ってるか分からなくなったけど、ともかく僕は個人としての自分を感じたいし、同時に、個人としての他人を見たい、と願っているんだ。)グールドの演奏には、グールドが宿っていると感じる。そして、どこにどう宿っているのか、それについてはとても曖昧だけれど、全ての音に、とか、それは自分で感じるしかない、という極めて微妙な結論しか書けない。もう少しグールドの魅力について書けると思ったのだけれど、好き、を分析するのって難しいし、多分、危ないことでもあるなあ、という本題から全く離れた感慨を抱いただけで、この文章は終わってしまいそうだ。……個性について少し書いたけれど、個性についてのことは、書けば書くほど、本質から離れてしまうと思う。例えばそれは、「あの人には個性があるのか? この人にはどうだ?」という考えに繋がりがちで、そう考えるときには、もはやその人の個性ではなく、その人の、他の人との差異しか見ていない。自分について「自分には個性があるのか? 無いのか?」と考えるときには、まさに自分は、自分の個性から離れている。

しんみりした、遠い感情。それだけが必要なんだ。

何だか難しく考えたような、何が言いたいのかよく分からないようなことを書いた気がする。とっても眠くなった。今日は朝早く起きたし、多分まともと言えるであろう時間に眠くなってきた。もう何にも思考できない。おやすみなさい。