雑記1

死にたい。何にも無い空っぽの部屋に行って、万年草みたいに半透明に生きていたい。昼間、錯覚ばかりの僕にもひとつだけ確信があって、それは死んだら全てになれるということだ。僕は消えたい。消滅したい。仮に僕がいなくても生活世界が持続するとしても、それにしても僕の存在だって千年も経てば忘れ去られる。跡形も残らないだろう。それなら何故生きる?
ウィルスが終息したら、アメリカかタイに行こうか、と夢想する。どちらも銃が合法の国だからだ。ギターだけ持って。どちらかと言うとアメリカがいいな。
僕は生きているのが苦しい。言葉は僕の邪魔になる。今はもう、言葉は僕をどこにも連れて行ってくれない。

バッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、いろいろ聴いたけれど、やっぱりグレン・グールドの(1981年の)演奏が別格だと思う。とてもありきたりな答えだけれど。

と、ここまで書いてきて、急に生きたくなる。どうも、こういうことがあるから、精神って面白い。
iTunesにはとても感謝している。月980円だけど、月何万円分もの音楽をiTunesで聴いている。その分、ミュージシャンにお金があまり入らないのは、良くないと思うけれど。ミュージシャンがお金持ちになれたのは、せいぜいここ60年間くらいのことだ。それまでは作詞家も作曲家も歌手もバンドも雇われだったし、バッハもモーツァルトもサラリーマンみたいなものだった。注文が入って曲を作るだけ。レコードやCDを売ってお金を儲ける時代は、多分終わった。と、思うのだけど、案外とこれからの時代、レコードは結構売れるかもしれない。アートワークに拘ったレコードは、美術品としても美しい。ミュージシャンなんて音楽を作って演奏するだけのことで、別に大したことをしている訳じゃない。(大したことをしている人って誰なのかと訊かれると困ってしまうけど。)好きな音楽を好きなだけやって、あとはそれで食べていけて、ある程度好きなことが出来て、楽器や機材は存分に買えるだけのお金が入って、あとは好きなものが人並みに買えればそれでいいと思うし、第一音楽が一番楽しいことなのだったら、音楽さえ続けてやっていければそれで満足できるはずで、その上大金が入らなければ文句を言うなんて、少し虫が良すぎると思う。音楽なんてただの音楽だ。別に苦労しているからって偉い訳じゃないけれど、普通のサラリーマンの方が、僕にしてみれば、よほど苦労しているし、すごいことをしていると思う。

そう言えば、近くにギター屋さんがあって良かった。僕はギターピックを100枚くらい持っているのだけど、その内使うのはお気に入りの、決まった一枚だけだし、これからその一枚と同じピックだけを纏め買いしてずっと使おうと思っているので、他の、大量に余ったピックをどうしようか迷ってた。ギター屋さんなら引き取ってくれるかもしれない。試奏用にいろんなピックがあったら便利そうだから。……特にサムピックは、おそらく一生使わないと思う。親指の爪で弾くのが好きだ。
……と、思ったのだけど、ギター屋さんもピックなんか貰っても困るかもしれない、と妙に思い悩んでしまう。(ついでに言えば、こう書いてて、サムピックを使ってみたら、けっこう面白くて、使うかもしれないと思った。)もっと図々しくなれたら。きっぱりとしていられたらいいのに。

より良く歌うために、何人かのヴォーカリストを模範にしているのだけど、いくら好きなヴォーカリストでも、もともとの声の質が僕と違いすぎる人は、あまり参考にならない。
声というのは、良く言えば個性的な楽器だけど、とても不自由な楽器でもある。融通がきかない。声は今のところ、運命みたいなもので、いくら自分の声音が気に入らなくても、取り替えることが出来ない。声帯が出す音自体は、誰しも似たり寄ったりらしい。ちょうど、どんなギターでも、弦が出す音自体は変わらないように。声の質は、ほぼ骨格で決まるらしい。ギターの音も、例えばアコースティック・ギターにしても、驚くほど音色や音量に幅があって、木材の温かみを感じさせる、内省的な音のするギターもあれば、明るかったり、つんつんしてたりするギターもある。いいギターと悪いギター(一概にいい/悪いとは決められないけれど)の違いは、いかに良く、音の素となる弦の音を響かせられるか、増幅させられるか、に係っている。見た目は、悪いギターもいいギターも、似たようなものだ。何故、同じような形のギターから、とても美しい音が出たり、耳障りな音が出たりするのか、考えてみれば不思議だ。
ギターのことはともかく、人の声もまた、骨格や共鳴腔の形が、その人の声を決めるのであって、声の出し方を変えることで、声量や響きの良さなどはある程度変えられるとは言え、その人の基本的な声質そのものは変わらない。(ただ、ギターとは違って、声は、声帯の音にも多少は個人差があるらしい。例えば、ハスキーな声の人は、声帯がもともとぴったり閉じなくて、いつも少しだけ隙間が空いているので、声に、空気が漏れる音が混じるらしいのだけど、隙間が大きすぎると、空気が漏れすぎて、声が出にくくなるらしい。ジョン・アンダーソンやロッド・スチュワートみたいに、ハスキーで、かつ声量のある人が、時々羨ましいけれど、けれど僕がハスキーな声の持ち主だったら、多分、それはそれで澄んだ声や、ノイジーな声に憧れていただろう、と思う。ニック・ドレイクもハスキー(というかスモーキー、という感じ)で、素晴らしい声の持ち主だけど、やはり僕がニックみたいな声だったら、ロックっぽくない、と悩んでいたかもしれない。)
僕は、すごく高い声で歌いたかった。高くて、中性的な声で。自分が男性だ、と意識すると、嫌な感じがする。多分都市伝説の類なんだと思うけれど、尿を飲むと高い声が出る、と何処かに書いてあって、早速試したんだけど、効果は感じられなかった。頑張って高音を出し続けていれば、すごく高い声が自然に出るようになるかと思っていたんだけど、すぐに喉が疲れてばかりで、力任せに出すのでは、僕にはどうやっても、綺麗な高い声が出ないのだと、最近やっと観念してきた。疲れずに、自然に歌うことを意識するようになった。女性の声を無理して真似るのはやめて、男声の歌でも、いきなりジェフ・バックリーだとかフレディ・マーキュリーだとかマイケル・ジャクソンだとかを歌うのは、我慢することにした。無理して喉を絞れば、一曲くらいは歌えなくはないけれど、一曲で喉が駄目になるし、第一まともな声で歌えない。

何年かの間の記憶が殆ど無いから、まだ今が2011年か2013年であるみたいな感覚があって、2020年だと考える度に、まるで未来にタイムトラベルしてきたか、数年間冷凍睡眠して、今急に目覚めたような、不思議な感じがする。2013年以降に登場したものは、全て未来のもののように思える。

僕は13歳のときから精神の病を抱えている。12歳の終わり頃に心療内科に通い始めて、最初は自律神経失調症ということで、整腸剤(だったかな? コロネルという薬)を出されていたのだけど、まだ自分が病的だとは感じていなかった。13歳の頃から鬱がひどくなって、死ぬことを考え始めた。読み書きと、音楽を聴くことと、歌うことにだけは集中できた。言葉と音楽、それは僕にとって余技ではなく、寧ろ言葉と音楽だけが現実だった。
13歳のいつ頃からだったかは忘れたけれど、声変わりしてから、どうしても自分の声に慣れなくて、自分の声が嫌いで、それに、まるで声が出なかった。食べ物屋で注文するときも、声が出ないので、メニューを指さすしかなく、いつも掠れ声を張り上げて発声するので、誰とも自然に話せなかった。歌いたかったけれど、声量があまりに無いので、喉を絞って無理に歌っていて、カラオケに行って何時間か歌うと、喉に歪な石が詰まったみたいな感じが一週間くらい続いた。というか一曲目から喉が潰れていて、二曲目、三曲目、とさらに無理しながら歌ってた。ひとりカラオケにはよく行った。歌うのが好きで、毎日部屋で何時間も歌っていた。慢性的に声帯が腫れていたと思う。自分の自然な声が分からなかった。声には本当に苦労した。喉を良くするスプレーや、のど飴などをいろいろ試したし、加湿器を買ったりした。耳鼻科にも通い続けた。自分の声に慣れてきて、喋っていても喉が疲れなくなってきたのは、本当に最近のことだ。一年くらい前から、段々、話すときに発声で苦労する(発声する前にいちいち咳払いしたりとか)、ということが少なくなってきた。けれど、歌うときはやっぱり、無理して歌っていて、一曲でも歌うと、二、三日は、喉が締まった感じが続いていた。

自分の声を、魅力ある楽器として捉えられるようになってきて、自分の声を楽器としてきちんと使えるようになりたい、と思うようになったのは、多分今月に入ってからだ。先月まではまだ自分の声に自信が無くて、僕は産まれ付き、声が出にくいのだと、半ば歌うことを諦めていた。

身体を、道具として捉えると、身体もいいな、と思う。ギターをもっと練習すれば、ギターを使って飛べるし、どこまでも自由に泳いでいけると思う。多分、いつか、言葉を書くことで世界の全てになれるし、どんな宇宙だって、宇宙の何処にだって行くことが出来るようになる。

本当に、今、僕が2020年を生きているのが不思議だ。今持っていて、とても大事にしている大切な物のいくつかは、この数年の内に作られたものなので、つまり僕の精神が壊れていた間にも、世界はきちんと動いていたんだなあ、と思うと、やはり不思議な感じがする。今持っている『中原中也全詩歌集』は上下巻共に2018年発行のものだ。70年以上前に死んだ中也の詩集を未来の本で読んでいるみたい。いつの間にか中也が死んで80年以上も経っていた。(そう言えば中也の詩を古いと意識したことは一度も無い。)僕の大好きなエレキギターテレキャスター)は2018年製だし、アコースティック・ギターは2020年製で、メーカー(Fender社)にも在庫が無かったらしいのを取り寄せたから、多分作り立てほやほやのギターなのだろうと思う。つい先月頃に、中国のギター職人が、コロナウィルスが流行っているさなかに、マスクを着けてせっせと作ったものなのだろう。まだ接着剤や木材の成分が揮発しきっていない感じの、いいにおいのするギターだ。
少し前まで使っていたGuildのギターも中国製で、とてもいいギターだったので、中国の工場には、給料が安いからと言って手抜きしたりしない、良心的な職人さんがたくさんいるのだと思う。Fenderアコースティック・ギターは素晴らしい出来映えで、本当に、もう少しお金を払ってもいいと思うくらいだ。6万6千円で買ったけれど、仮に15万円で買っていたとしても、満足していたと思う。
ギターは、全く同じ素材を使っていて、同じ工法で作っていても、アメリカ製だというだけで二倍以上の値段が付く。アメリカの、雑な仕事をする職人の作ったギターより、中国の、いい仕事をする職人が作ったギターの方がいい。僕は、今までいろんな楽器屋で、いろんなギターを試奏させて貰ったことがあるし、せっかくだから高いギターを弾かせて貰ったことが多いのだけど、今まで試奏して、すぐにでも買いたいと思うほどいいギターだと思ったのは、テレキャスターだけだ。10年前に初めてテレキャスターというものを弾いてみて、弾きやすさも音も、まさに僕が求めているギターだと思った。すぐには買えなかったけれど、買うならテレキャスターだと、もう大分前から決めていた。(テレキャスターには、大きく分けて、最新の技術を惜しみなく注ぎ込んだモデルと、昔からほぼ作りが変わらないモデルがあるのだけど、両方買ってみて、個人的には後者が圧倒的にいいと思った。60年間デザインや仕様がほとんど変わっていないだけのことはあると思う。)
アコースティック・ギターの場合は、どんなに高いのを弾いてみても、弾いてすぐに、別に欲しくない、と思った。いろいろなアコースティック・ギターを弾いてみて、僕は、おそらく8割~9割のギターに採用されている、スプルース製のギターより、安い値段のギターに採用されていることの多い、マホガニー製のギターの方が大好きだ、と思った。(スプルースはマツ科のトウヒという木らしい。)スプルース製のギターは、きらきらした明るい音がする。マホガニー製は、少し神経質で、かつ優しい音がすると思う。高いギターになるほど、僕が求める音からは離れてしまう気がする。マホガニーは、高級なギターにはまず用いられない。マホガニーを使うと、いかにも高いギター、という感じの煌びやかな響きが出ないからだと思う。ニック・ドレイクはおそらくほぼ全ての録音にマホガニー製のギターを使っていて、最晩年の数曲だけ、スプルース製を使っていると思う(聴いてて、そう感じるだけなので、間違っているかもしれない。でも、少なくとも、ニックが、スプルース製の、MartinのD-28というギターを所有していたのは間違いないらしい)。スプルース製のギターは、冷たい水のように澄んだ綺麗な音がするし、混じりっ気が無くて、別に、嫌いな音という訳でもない。僕はニックが、おそらくスプルース製のギターを使って演奏した数曲もすごく好きだ。でも、僕が自分のメインのギターとして使いたい音ではないな、と思う。

僕の病は、13歳から18歳、18歳から19歳、20歳から23歳、23歳から32歳、で全然違う様相を呈したと思う。病名が二転三転したのも当然かもしれない。13歳から18歳までは現実感がゼロで何も出来なかった。18歳から23歳までは多作だったけど、精神に波がありすぎた。23歳から32歳までは、今度は現実に押しつぶされる感じの嫌な鬱で、それぞれの時期に別の辛さがあった。20歳から23歳までは絶望と最高の喜びを毎日行ったり来たりしてた。

昔は、いつか世界か、自分の頭に、裏切られるのではないか、という不安がずっとあった。例えばここに、僕のお気に入りのペンがあるけど、ペンを引き出しに入れてたら消えてしまうんじゃないか、とか、消えないまでも何か取り返しの付かない変質が起こって、何がどうとはうまく言えないけれど、もう二度と元のペンには戻らないんじゃないか、とか、あるいは僕が急に心変わりして、このペンが急につまらなく思えてしまうんじゃないか、とか。(僕の不安の大元には、世界に対する、あるいは自分に対する不信感、というものがあったと思う。)ヴィトゲンシュタインはそういう類の不安については、おそらくわざと触れていないと思う。大体の哲学が、いちいちの言葉によって作られた悩みを、ひとつひとつつつき回す、病理学的なものだとすれば、ヴィトゲンシュタインの哲学は、健康な精神ひとつあればそれで足りるのだ、という生理学的なものと言えると思う。

僕は、精神が本格的に病んでから、少しだけ哲学の本を読んだ。自分の世界観がおかしいと思ったので。何冊か哲学の本を読んだ後、ヴィトゲンシュタインを読んで、ヴィトゲンシュタインがきちんと(実感として)分かれば、他は必要ないと思った。何故かというと、僕に迷いが全く無かったときに、僕が持ち得ていた世界観(世界の見方)を、ヴィトゲンシュタインが出来うる限り丁寧に言語化してくれている、と思ったからだ。僕固有の世界の見方は、もちろんあるけれど、それとは別に、普遍的な世界の見方があると思う。……最近は、井筒俊彦さんの本を読んで、とても面白かった。

眼鏡が汚れたりとか。そんなことが嬉しい。本当は早く白山眼鏡店の眼鏡が欲しい。と、思いつつ、3千円の間に合わせの眼鏡を、もう9ヶ月以上掛けている。外していることも多い。支障があるほど眼が悪い訳でもないから。

まだ本気を出していないのに死ねるわけ無い。

世界は不思議に満ちている。僕は最近、その不思議を生きている、という感じが強くする。

しみじみとした感覚がいいのだ。

カラフルな骨、羽たちの中で、プテラノドンの化石が飛ぶ。

やっぱり僕はアニー・フィッシャーの弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集が好きだ。ベーゼンドルファーのピアノの、やや神経質な、控えめな音が、地味だと感じるときもあるし、スタインウェイの煌びやかさよりずっといいと感じるときもある。しばらくクラシックから離れていたけれど、やっぱりクラシックは美しい。

美しい日本語が書きたい。僕はまだまだだ。

言葉には無限の可能性がある。僕は今、その無限から隔絶されている。

心の奥に入りたい。

書くことはアクセスすることだと思っています。読むこともまた、アクセスすることです。僕は人間以外のものだと思います。同時に僕は人間です。人間はある有限の時間を、時間軸に沿って生きている、と思っている。そしてある程度の時間が過ぎると、人間は滅び、多分、次の、おそらく人間より優れた存在(知性)が現れる、と思っている。それはある程度はほんとうで、ある程度は嘘です。

個人的に、個人的に、個人的になるんだ。

ヴァイオリンの独奏曲で、しばしば最高峰の作品だと言われることの多い、バッハの『シャコンヌ』をたまに聴く。聴くたびに、少し疲れるなあ、と思う。ヴァイオリンは弦楽器、というかクラシックの楽器の(ピアノと並んで)花形だと思うけれど、その理由はやはり何と言っても、高い音が出て、煌びやかで、目立つからだと思う。でも、僕はヴァイオリンの高音が、どうにもあまり好きになれない。弦楽四重奏(チェロとヴィオラとヴァイオリン二本、が基本的な編成)だと、チェロとヴィオラの中音域が、音に膨らみをもたらすので、ヴァイオリンの高音の耳障りさが軽減されるけれど、ヴァイオリンの独奏だと、高い音だけを延々と聴かなければならないので、疲れてくる。チェロの独奏を聴くのは大好きで、いつまでも聴いていられる。ちなみにチェロは低音部を受け持つことが多いけれど、ギターと殆ど音域が変わらない。ギターの(スタンダード・チューニング時の)最低音がミで、チェロの最低音がその下のドなので、チェロの方がやや低いけれど、ベースと比べると断然高い。チェロは中音域の楽器だと思う(正式にはどうか知らないし、正式、というのがあるのかも知らないけれど)。どうも僕は、中音域が好きだ。昔は高い音の出る楽器や、高い声がいいと思っていたし、憧れていたけれど、20歳頃から段々中音域の魅力に気付いてきて、今は、ヴァイオリンにも、すごく高い声にも、それほど憧れていない。いや、すごく高い声には今も憧れているけれど、それでずっと歌いたいとは思わない。ベースの音部は、音程感が曖昧なので、例えば自分でベースを弾きたいとはあまり思わないし(ただ、ベースって弾いてて本当に気持ちいいんだけど)、ベースを前面に押し出した音楽や、あまりにベースの音が強すぎるテクノなどは、それほど聴かない。

それにしてもチャールズ・ミンガスは何て素晴らしいのだろう。ミンガスを聴くと、ベースが世界で一番素晴らしい楽器なんじゃないかと思ってしまう。ミンガスがどの程度、理論的に複雑な音楽を作曲・演奏しているのかは知らないけれど、ミンガスを聴いたときに感じる、暗いような、切ないような、哀れなような、懐かしいような、そして最高に気持ちいい感覚は、他の誰の音楽にも無い。基本的に彼の音楽は5~6人編成くらいのバンド演奏だと思うのだけど、まるでオーケストラのような膨らみがあって、かつ柔らかく緊密な感じがする。トランペットもサックスもトロンボーンオーボエも、僕は取り立てて好きな楽器ではないんだけど、ミンガスの音楽でそれらが鳴っていると、まるで管楽器が世界を構築するのに不可欠な楽器である、というか、全ての楽器がまるでミンガスひとりの壮大で多層的な歌の、不可欠な一部のように感じて、何が欠けてもいけないような気がする。というか、聴いていて、今何の楽器が鳴っているのか、ほぼ意識しない。とても視覚的な音楽というか、音の風景に浸っている自分を感じるだけで、聴いていて旋律として一番意識するのは、普通は一番目立たないはずのベース音だ。ベース音が下で鳴っているというよりは、中心で鳴っている、という感じ。立体的な音楽。

ミンガスの音楽に慣れると、ひとついいことがあって、基本的にミンガスの曲は10分くらいあって、中には30分の曲もあるくらいだから、長い曲を聴くのに慣れてくる。10分や20分の長いリズムを身体が覚えるというのかな。『失われた時を求めて』は、有名な小説では多分一番長いと思うのだけど(8000頁くらいかな)、とりあえず全部読めば、1000頁くらいの本なら余裕になる。クラシックの音楽は一曲10分や、時には20分あるのが当たり前だから、まず長さに慣れないと、退屈過ぎて、聴くのがけっこうきつい。村上春樹の『海辺のカフカ』の中で、ドライヴ中にはシューベルトのピアノ・ソナタを聴くんだ、何故なら退屈だから、というような台詞があって、確か後期のピアノ・ソナタについて言っていたように記憶しているんだけど(間違っているかもしれない)、シューベルトの晩年(と言っても31歳で亡くなっているけれど)のピアノ・ソナタを僕は全く退屈だとは思わない。確かに展開は曖昧だし、多分どこかに曲を売るつもりも無く、ただ浮かんでくる楽想をすごい速さで書き留めたのではないか、という印象のする曲ばかりだけど、とにかくどこを切り取っても美しくて、全然冗長じゃなくて、それにどの曲にも主題はきちんとあって、曲の中で紆余曲折あって、二度目に主題が現れてくる瞬間が、ぞくぞくするほど美しい。特に21番のソナタ(第一楽章)で、それまで孤独な喜びから、段々寂寥感を連想させる展開が8分ほど続いた後、まるで独りぼっちを観念したかのような数秒間の無音部があって、それから、まるでふと優しい救いの感情に包まれるみたいに、最初のテーマが鳴り始める瞬間は、特に感動的だ。(ちなみに僕はアルフレッド・ブレンデルの演奏でよく聴くのだけど、アンドラーシュ・シフの演奏も、子供の時遊んだ陽だまりの中庭のような郷愁があって懐かしくなるし、内田光子の演奏はドラマチックでありながら、一番純粋な孤独を感じて好きだ。喜びに満ちているはずの第三楽章でさえ、内田光子の演奏には寂しさを感じる。演奏時間にかなりばらつきがあって、第一楽章は、ブレンデルの演奏では14分38秒、シフは18分34秒、内田光子は22分なのだけど、多分ブレンデルの演奏は曲構成を変えているのだと思う。ブレンデルの演奏では9分の手前に、シフの演奏では5分の手前と13分の手前、内田光子の演奏だと6分の手前と15分過ぎに数秒間の無音部があって、主題が繰り返される。)

ジャズでは、僕が知っている中では、マイルズ・デイヴィスの日本公演の録音である『Pngaea』と『Agharta』の曲が圧倒的に長いんだけど(しかも結構単調、嵌まるとかなり気持ちいい)、これは、気持ちよくアドリブを弾いている内にやたら長くなった、という感じ。例えば『Agharta』のDisc 2には一曲だけ入っていて、それが1時間1分もある。多分、僕の知っている曲の中ではこれが一番長い。マイルズは『Pngaea』と『Agharta』以外では、“Bitches Brew”が長かったかな?、と言う程度。調べてみたら27分だった。他はあんまり長い曲は思い付かない。やっぱりミンガスが圧倒的に長いと思う。ミンガスの曲なら20分や30分の曲はざらに思い付く。ジャズでかなり有名なアルバムの中では、おそらくキース・ジャレットの『Köln Concert』(Wikiによれば世界で一番売れたジャズのソロ・アルバムであり、ピアノの独奏のアルバムとしても一番売れているらしい)の一曲目が一番長いんじゃないかと思うのだけど(26分25秒)、確かにものすごく美しいとしか言えないメロディが次々と湧いてきて、悔しいことに毎回感動してしまうアルバムではあるんだけど、それがドラマチックで大仰な、疲れるような感動なので、すごく好きだ!、と公言することには抵抗がある。もっと、静かで、内面的な感動の方が好きだ。
ジャズ(とクラシック)以外ではマニュエル・ゲッツィング(ロックなのかな? ギターの入ったテクノかな)の『E2-E4』が58分39秒ある。ロックではライヴのアドリブがやたら長い曲がたまにあって、その中でも滅法長い曲が多い印象なのがグレイトフル・デッドオールマン・ブラザーズ・バンドで、グレイトフル・デッドだと『Dick's Picks Vol. 4』というアルバムが好きなんだけど、30分の曲が3曲も入っていて、しかも殆どがギターのアドリブ。グレイトフル・デッドはアルバムの数が膨大なので、探せば長い曲はいくらでもあると思う。オールマン・ブラザーズ・バンドは初期のデュエイン(デュアン?、どっちだろう)・オールマン(24歳で死んだ)が生きていた頃のアルバムしかほとんど聴かないんだけど、彼のアドリブが長くて、ちょっと神がかってて、“Mountain Jam”という曲が『Fillmore West '71』に入っているのが45分42秒、『Eat a Peach』に入っているのが33分39秒。ジミヘンもライヴでは、やはりアドリブがたまにすごく長くて『Blue Wild Angel』という晩年のライヴを録音したアルバムで“Machine Gun”という曲を22分以上弾いている。“Machine Gun”はとても好きな曲なんだけど、このライヴでの演奏は、ミッチ・ミッチェルのドラム・ソロが途中、たしか3分くらい入っていたと思うのだけど、あまりいいドラムではないと思う。
ロックのスタジオ・アルバムでは、そんなに長い曲を入れると、レコード会社に難色を示されるのか、それともリスナーが付いて来られないかも、と心配になるのか、そんなに長い曲は滅多にない。相当長い曲、例えばYesの“Close to the Edge”で18分43秒。でもこれはいくつもの楽曲のメドレーみたいな感じだから、長いという感じはしない。Emerson, Lake & Palmerの一枚目に入ってる“Take a Pebble”で12分34秒。二枚目に入ってる“Tarkus”が20分44秒。The Doorsの“The End”が11分43秒。“When The Music's Over”が10分59秒。他に何か長い曲ってあったっけか。一般的にロックでは7分もあればかなり長い方で、例えばRadioheadの“Paranoid Android”が、ヒット曲にしては長い方だと思うのだけど、たったの6分27秒しかない。他に長い印象なのはLed Zeppelinの四枚目のA面最後の曲の“Stairway to Heaven”が8分3秒で、B面最後の曲の“When the Levee Breaks”(素晴らしい曲!)が7分9秒なのが、けっこう長いな、という感じ。(そう言えばLed Zeppelinだと、一番くらいに名曲の“Kashmir”を忘れていた。8分30秒だ。)Televisionの“Marquee Moon”は10分46秒あって、しかも全く退屈じゃなく、大曲という感じもしない奇跡的な曲。素晴らしい。……ちなみにビートルズで一番長いのは、おそらく“Helter Skelter”のTake 2のノーカット・ヴァージョンで、12分54秒あるんだけど、だらだらしているので、編集したヴァージョン(『Anthology 3』に入ってる。4分38秒)の方がいいと思う。ビートルズの有名な曲では“Hey Jude”が一番長そうだけど、この曲は7分10秒。後半の合唱が長くてうんざりする。ジョンが作った“I Want You”の方が長くて、7分42秒あるのだけど、これも後半は吹雪のようなエフェクトが延々入るだけ。でも好きだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドには、そう言えば長い曲がけっこうあって、『White Light/White Heat』に入っている“Sister Ray”は17分27秒ある。でも、もっと長くてもいいくらい。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはライヴでは(特に“Sister Ray”のライヴ・ヴァージョン)30分くらいの曲が何曲かあったと思うのだけど、録音の質が悪いので今はほとんど聴かない。ストーン・ローゼズは一枚目のラストの“I Am the Resurrection”(後半の同じコード(厳密にはB-B-B-B-A-E)を延々繰り返す部分が天国的に美しい)が長い印象なんだけど8分15秒で、二枚目の一曲目の“Breaking into Heaven”の方が長くて、11分22秒ある。(あとから思い出したけど、そう言えばピンク・フロイドの“Shine on You Crazy Diamond”が17分32秒ある。)
アニソンだと『神のみぞ知るセカイ』(たしか1期)のOP(10年くらいずっと好きで聴いてる)が8分8秒あるけど、他には長い曲は全然知らない。アニソンは、見たアニメの曲しか知らないから(アニメはけっこう見るにしても)あまり詳しくないんだけど。日本の曲は、もう少し知りたいと思うのだけど、どこから手を付けたらいいか分からなくて、あまり聴いていない。長い曲もあるのかなあ(って別に長い曲を知りたい訳じゃないんだけど)。……何で、長い曲について書いてるんだろう。僕の知識は狭くて偏っているので、長い曲、という話題ひとつにしても、あまり話を膨らませられない。知っている曲が少なすぎる。

有名になりたいんじゃない。激しい表面的な感情は要らない。涙なんて要らない。
僕は日本語が苦手だ。思考と表現の手段を英語とフランス語にシフトしたい。
それでも尚、僕は日本語が好きだ。

浅い感情を生きていたくない。日本語のポップな小説は好きだ。でも大抵の、日本語のポップな音楽は好きじゃない。でも、好きじゃないものがあることって、その好きじゃなさから、自分の「好き」の方向性を確かめられて、それに僕が好きじゃないものを好きな人たちの膨大な「好き」が集合されて、この世が光の中で成り立っているようで、だから、好きじゃないものを全面的に嫌いな訳じゃない。

僕はマホガニー製のアコースティック・ギターが好きだ。内面的で、暗い感情を表すことが出来るから。Fenderアコースティック・ギターがとても気に入っている。安いから選んだのだけど。でも、いつか、その内、Martinのoo(ダブル・オー)-15Mというギターも買ってみたい。マホガニー製のギターは基本的にそう高くない。ギターにしては、と言うことだけど。oo-15Mは15万円する。Martinのラインナップの中では、そう高い方じゃない。一番オーソドックスなD-18やD-28は30万円するくらいだから。まあ、Martinってやたら高いんだけど、、、でも憧れだよね。

何だか本当に雑然と書いてる。雑記、というのには相応しいかもしれない。ここで一端切ることにします。