いろいろなメモ、躁、鬱、性格、道具、

Wi-FiBluetoothが苦手だ。線で繋ぐのが好きだ。
電子書籍が苦手だ。紙の本がいい。

何もかも信じる力を私にください。

言葉を超えた場所で心を燃やし尽くせ。

惹かれるものに、惹かれるままに、理由抜きで、惹かれゆくこと。

感情を素通りしていく言葉に意味は無い。僕の感情は稀薄で、どんな言葉も僕の感情に引っ掛からなかった。今、言葉は僕の胸に染み込んでいく。胸の奥には海があって、そこはとても澄んでいる。

何ごとも、ひとつの物ごとを身につけるには10000時間掛かると言われているけれど、この数字は妥当だと思う。何かをすっかり自分の身体の一部にしてしまうには時間が掛かる。10000時間、あるいは10年が妥当な時間だと、僕は思う。
僕はそういうスポ根的で、脳科学的(?)な、具体的な努力目標設定が割と好きで、今全然出来ないことでも10000時間やれば、それなりに何でも出来るのだと思えば、希望が湧く。あるいは毎日やり続けて10年。例えばお箸を自然に使えるようになったり、ある程度自分の字が書けるようになるのには、大体10年かかる。ひとつの道具を身に着けるのには、それくらいかかると思う。僕は今までの10年間、何ひとつ身に着けてこなかった。これからの10年で身に着けたいことは幾つかある。毎日の習慣はとても大事だと思う。
あと、何処で読んだのか、本を5000冊読めば、ある程度ちゃんとした文章が書けて、10000冊読めば、小説が書ける、とまた根性論みたいなことが書かれているのを読んだことがあって、何となく、そんなものかな、と思ったし、今も何となくそう思ってる。

緊張感や不安や恐怖感が段々無くなってきて、またスピーカーで音楽を聴くことが楽しくなってきた。10年近く、スピーカーでは音楽が聴けなかった。何故かと言うに、聴いても平面的に、雑音のようにしか聞こえないし、自分が意図的に音を出している、ということが、自己主張のように感じられて、少しの音量でも、周囲に迷惑を掛けているのでは無いか、あるいは平日の昼間から音楽を聴いていることを、家族や近所の人に怪しく思われているのでは無いか、という殆ど妄想的な、妄想的だと分かっていても打ち消せない、うっすらとした恐怖心があったからだと思う。本格的に鬱になる前の僕は、部屋で大音量でギターを弾いたり、歌ったり叫んだりして平気だった。夜中にでも近所迷惑なんて考えなかった。それはそれで良くはないけれど、ここ数年は、近所の人に僕の(いい加減いい歳をした引き籠もりの)存在を悟られるのが異様に怖くて、部屋にいてもまるで、巨大な悪意(あるいは嘲笑や軽蔑)から身を隠し、息を殺しているみたいに、体中が強ばっていて、椅子に座っているだけでも、まるで自分の一番恥ずかしい、醜い、軽蔑されて然るべき部分をさらけ出しているようで、いつも膝を抱えて、猫背で、キーボードにかがみ込むようにして、びくびくしながら、懺悔、というか言い訳をするように、キーを覚束ない指先で、おそるおそる叩いていた。散漫な言葉ばかり書いていて、書いていても楽しくないし、けれど、書くことには縋り続けていて、書いていて最高に楽しかった遠い記憶にしがみついていて、書けない書けない、ということを書いていて、スピーカーで音楽を流す代わりにヘッドホンを着けると、今度は周りの物音が聞こえなくなるのが怖くて、どうやっても音楽の世界にも言葉の世界にも入れなくて、不安な現実というものから逃れる手段が何ひとつ無くて、しかも父には「どれだけ休んだら気が済むんだ」と言われ、僕は一生懸命へらへらしてた。言葉が怖い、とか、音楽が聴けない、というか音楽すらも怖い、という感覚は、精神が健康な人にはまず分からないと思うし、僕もそんなこと分かりたくなかった。ギターの音すら、弾いている人の存在を感じて、そして人の存在は無条件で怖いので、楽器の音がまず無理になってしまった。電子音楽にも人の意図を感じるし、だから、聴けるのは環境音のアプリの焚き火の音だとか、しかしそれも段々、同じ音がループするのが不安になって、火の粉のぱちぱち爆ぜる音さえ、書き割りみたいにかたかた動く人が棒読みする、大抵は不安を煽る言葉みたいに聞こえ始めてきて、逃げても逃げても何か得体の知れない、ぼんやりとした不安の塊が脳に住み着いていて、僕の不安な言語回路を勝手に稼働させて弄くっているみたいだった。そういう、自分の置かれた状態を言語化することは出来たけれど、頭に銃を突きつけられている現実を知ったからと言って、銃殺される恐怖が無くなるわけでは無いし、病巣を正確に把握したからと言って、それを自分で取り除ける訳じゃ無い。脳は恐怖感に晒され続けると、扁桃体が肥大して、常に恐怖を感じるようになるらしい。PTSDというやつだ。多分、僕はその状態にある、と思ってはいて、長期間の休息と安らぎが何としても必要だ、と思ってはいたのだけど、外に出るのは怖いし、人と話すのも怖い。言葉も音楽も怖い。壁が怖い。自分の衰弱や加齢が怖いし、父が怖いし、母も怖い。ネットも恐怖に満ちていて、それでもブログだけは続けていて、それは、ブログをやめてしまったら、もう本当に人たちから完全に切り離されてしまって、ひとりで急速に朽ちてしまう、部屋の中で架空の不安の声に塗れて、恐怖のあまり自殺してしまう自分が目に見えていたからだ。だから毎日ひたすら怖い怖いと書き続けた。ひたすら怖いということを震える指先で、能面よりも歪な無表情で書き綴っていたのだけど、現代詩手帖には何故か二回載って、佳作にも選ばれてたりして、母が詩を褒めてくれたときにも、全然嬉しくなくて、僕は評価より何より安息の場所を探していて、自殺未遂にも薬にもアルコールにも、遂には逃げられなくて、腕を切っても何の効果も無いので、針で刺したりとか、腕や指をライターで焼いて、水膨れを掻いて破るとか、陰湿な自傷をしていて、親しかった人たちには見放されたと勝手に感じて、しかも狂うことも出来なかった。時間の感覚がおかしくなって、アナログ時計をじっと見ていると、秒針がいきなり5秒飛んだりとか、逆に回って見えたりした。つまり僕は断続的に意識を失っていて、そんなときに車を運転していたら、直進道路で真っ直ぐ前の車に突っ込んだ後、その帰りには、気が付いたら反対車線の道端に停めてあった車(軽トラック)に衝突した後で、ガラスもドアもぐしゃぐしゃだし、とにかく寒いし、軽トラは畑の中に横転していて、警察が集まっていて、母がドアの外で僕の名前を呼んでいた、ということがあった。軽トラの持ち主のおじさんが、自分の車のことは何も言わず、しきりと僕に怪我が無くて良かった、ということを言ってくれたけれど、僕はとにかく寒さしか感じなくて、おじさんの好意に甘えて、すぐに帰らせて貰ったら、そのことで父に叱られた。それから3年だか4年だか、僕は運転が許されていないし、僕も人を轢いたらと思うと、怖くて運転できない。しばらくの間は、両親が運転する車に乗るのも怖くてならなかった。昔みたいに、ヘッドホンを着けてても、音楽と車窓からの流れ行く景色、音楽と光が混ざり合ってきてトリップする、なんて精神状態には全く、1ミリもなれなくて、まるで車がずっと断崖絶壁すれすれのカーブをぎりぎりのところで切り抜け続けているような、嬉しくないスリルの渦中に僕はずっといて、常に次の瞬間の追突に身構え、自転車や通行人には意識を張り詰めさせていなければならなかった。

一年くらい前から、ヘッドホンでも音楽が聴けるようになってきた。すぐには楽しいとまでは行かなくて、病院の待合室でヘッドホンを着けてたら、医者の先生に「ヘッドホンが無いと不安ですか?」と言われて「不安じゃなくなってきたからヘッドホンを着けているんです」と答えたのだけど、ともかく、ヘッドホンがあれば安心できる、という状態は、僕にとっては完全に正常な状態で、けれど最近までは、軽く怯えながら音楽を聴いていて、音楽を楽しむと言うよりは、苦学に近い気持ちで聴いていた。音楽に身体を預けることが出来ないので、しかめっ面をして、分析的に聴くよりほか、どうしようも無いのだ。楽しむ、と言う感覚を、本当に最近になって思い出してきた。音楽が楽しいし、言葉が楽しい。

前置きが長くなってしまったけれど、僕は多分(多分もともと)、ヘッドホンで音楽を聴くのと同じくらい、スピーカーで音楽を聴くのが好きだ。

僕は使い捨てというのが本当に嫌で、小学校に上がる前から鉛筆を殆ど使ったことが無い。ずっとシャープペンシルを使ってた。ボールペンは中の芯が使い捨てだし、シャーペンも芯が使い捨てなので、完全には気に入らなかった。万年筆にずっと憧れていて、けれど万年筆はとても高価なので、僕はペリカンとかモンブランが欲しかったので、その数万円の余裕が無くて、大学に入るまで万年筆を買うことが出来なかった。大学に入ってすぐ、18歳のときに買ったペリカンのM800のM(中字)には幻滅して、万年筆ってこんなものなのか、書きにくいやら重たいやらで、今考えればM800はとてもいい万年筆だったのだけど、僕の好みには合わなかった。もっと字が細くて、軽くて、持っていて落ち着くデザインが良かった。けれど、僕はまず定番から入る性格なので、定番中の定番を買って、そして自分に合わなかったので、万年筆は僕には合わないのだろう、と早とちりしてしまった。それから10年以上、万年筆には興味が無くて、ずっとお気に入りのシャープペンシルを使っていた。ちなみに僕は、16年間同じシャープペンシルを使っていて、それ以外のペンはボールペンさえ持っていなかった。決まった4Bの芯だけを使っていた。またぞろ万年筆に興味が湧いたのは、障害者年金が入って、いくらかお金に余裕が出来たからで、まずは一生使えるペンを買おうと思って、M800の失敗から、今度は小さめのM400のEF(極細字)を買ったのだけど、どうもペン先がくにゃくにゃして興味じゃなかった。国産のがいいかもと思って、国際的に評価の高いパイロットのCustom823というのを買ったけれど、これはキャップを着けたまま書くと、とてもバランスが悪かった。どうもキャップを外して書くとバランスがいいのだけど、僕はキャップを着けて書く方が好きで、キャップを外していると、キャップが無くならないかと気になってしまう。ちなみにCustom823は母にあげた。余程慎重になって、いつか理想の万年筆が見付かるまで買い続けようと思っていたのだけど、アウロラオプティマのEFを買って、すんなり落ち着いた。色は深海のような青で、クリップなど飾りの部分は金。ちなみに言えば、殆どの万年筆がそうであるところの、カートリッジ式やコンバーター式のインクは論外だった。同じ個体を万年使えるから万年筆なのに、カートリッジやコンバーターを交換しながら使い続けるなんて、そんなの万年筆じゃ無いと思った。第一、いつかカートリッジやコンバーターが生産されなくなったらどうするんだ?、と思うと不安だ。それで、アウロラの万年筆なんだけど、もう1年と半年以上、毎日毎日欠かさず使ってる。けれど、万年筆自体にあまり慣れていなかったのもあって、まだ完璧に自分のペンにはなっていない。ほんの少しだけよそよそしい気がする。アウロラが自分のペンになるまで、何年でも使い続けようと思う。

スピーカーで音楽を聴くのが好きだ。音に身体が満たされる気がして。ヘッドホンの、頭の中が宇宙になる感じも好きで、今は、昼間にはスピーカーで聴いて、夜中にはヘッドホンを使っている。本当は以前使っていたBOSEのスピーカーがいいな、と思い続けていて、BOSEのスピーカーは低音に癖があると言われているのだけど、僕はその癖が好きだったので、手放してしまったのはつくづくと残念だ。また近い内にBOSEのスピーカーを買い直そうと思い続けてる。今は何年か使っているYAMAHAのスピーカーに、まずまず満足していて、何というかフラットな音がする。あまり奥行きの無い音なので、満足は出来ないのだけど、聴けないほどではない。本当の本当にはJBLのスピーカーが一番上質そうで、やっぱり、上等なスピーカーの定番なので、いつか買いたいのだけど、BOSEYAMAHAのスピーカーより一桁高いので、今はとても買えない。音楽があれば精神はどこまでも自由に、どこまでも行ける。僕はライヴアルバムよりスタジオアルバムの方が断然好きで、それは即興詩より、ひとつの、完成された作品としての詩集が好きなのに似ている。独立した、完成されたひとつの作品を何度も何度も味わって、ひとつひとつの(アルバムや詩集や小説などの)作品をまるまる所有したいという願望が僕にはある。身体で聴いて楽しむだけじゃ無くて、歌詞も全部覚えて、歌ってみて、ギターの曲なら自分でも弾いてみて、コードや、どんな音楽理論が応用されているか分析したり、いろんな角度から総合的に、ひとつのアルバムを自分の身体の一部になるまで、よく聴きたい(歴史的背景とかは不純だと思う。あくまで音楽そのものを聴きたい)。右脳で聴いて、左脳で聴いて。ライヴアルバムはどうしたって散漫だし、観客の声なんて要らない(ごくたまにライヴアルバムでも、スタジオ並みに完成されたアルバムがある。例えばビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』とか)。詩集なら詩集で、一冊の本としての詩集を、隅々まで舐め尽くしたい。だから中也の詩集なら、14年間読み続けている講談社文芸文庫で読まないと、何だか少し気持ち悪い気がする。何処に何の詩が入っているか、大体感覚的に分かっているし、中也だけは旧字体で読まないと、どうもしっくり来ない。ヘッドホンは10年間、同じの(Audio-TechnicaのATH-M50x)を使っていて、多分一生このヘッドホンだけを使い続けるだろうと思う。ATH-M50xから出る音が、僕にとっての音の基準値だ。もっといい音がするかと思ってAKGの高いヘッドホンを買ってみたけれど、そうすると相対的にAudio-Technica特有の音の癖、というのが分かって、その癖みたいなのが無いと、やはり落ち着かない。その癖については、ちょっと重厚だとか、粘っこいだとか言っても、言葉では説明のしようが無い。でも、僕にはAudio-Technicaの音の癖が分かる。それが心地いいし、何より安心する。Audio-Technicaの音はフラットだと言われることが多いみたいだけど、やはり独特の鳴り方はあると思う。日本のスタジオではかなりの頻度でソニーのヘッドホンが使われていて、つまりソニーのヘッドホンから鳴る音が、日本のミュージシャンの志向した音に一番近いのだろうと思うけれど、イギリスやアメリカではAudio-Technicaが使われることが断然多いらしい。ソニーのは日本の叙情的な、旋律重視の音に合っていて、Audio-Technicaは何と言ってもリズムの表現力に優れているらしく、タイトでやや重さのある音がして、そしてUKロックや、特にアメリカのロックで一番重視されるのは、旋律の美しさや高音域の表現力では無く、リズム(ドラム、ベースに限らず、ギターや歌やメロディなどが、全て総合されてのリズム、グルーヴ、ビート感、スウィング感)であるのらしい、とどこかのブログに書かれていて、それなら僕がAudio-Technicaを使い続けていたのは、主にUKロックやアメリカのロックを聴く僕にとってはベストな選択であったのだろうし、そうじゃなくても、そんなことを知らずにたまたま買ったAudio-Technicaのヘッドホンは、もう僕の身体の一部になっていて、今更、例えばAudio-Technicaはロックには合わない、などと言われても、換えることは難しい。ちなみにジョン・レノンはスタジオでは主にAKGのヘッドホンを使っていて、トム・ヨークはピアノの弾き語りの時にもAudio-Technicaを使っているのを動画で見た。世界的なミュージシャンが、1万円や、高くて3万円くらいのヘッドホンを使うのは面白い。ヘッドホンはもはや完成されていて、1万円だろうが30万円だろうが、音質に優劣は無くて、寧ろ安いヘッドホンの方が、余計な味付けがされなくて、スタジオで重宝されるのかもしれない。プロが3万円のヘッドホンを使い、アマチュアのオーディオマニアが30万円のヘッドホンで悦に浸っているというのは、多分ヘッドホンに限らず、どんな分野でもありがちなことで、両方あって丁度いいのだと思う。AKGのヘッドホンは空間的な拡がりが素晴らしいと思った。ただ、ジョン・レノンが使っていたモデルとは音の出方が大分違うと思う。拡がりのある音楽のモニタリングには多分AKGが使われることが多いのだと思うけれど、例えオーケストラであっても、聴くのにはやっぱり僕にはAudio-Technicaの方が鮮明に聞こえると思った。空間的なロックを聴くのにもやはりAudio-Technicaの方が、僕には美しく聞こえる。タイトな音楽には尚更合っていると思う。テクノではたしかBeatsとAudio-Technicaが双璧で(詳しいことは知らない)、この世に完全にフラットな音というのは存在しなくて、自分にとっての音の基準というのがあれば、別に何だっていいのだと思う。BOSEはやっぱりヘッドホンでも、低音に味付けがされ過ぎるらしいのだけど、それだってずっと使っていれば、BOSEで無ければ、ということになってしまうのだと思う。

えーと、何を書こうとしていたんだっけ? 主に道具のことになってしまった。「身に着ける」とは言うけれど「頭に着ける」とか「脳に着ける」とか「精神に着ける」とは言わない。道具とはあやふやな抽象的なもので無く、形ある、手応えのあるものだと思う。最初は道具を使えない。道具に振り回されたり、自分勝手な使い方には、道具の方がどうしても随ってくれなかったりする。言葉だって道具だ。具体的な、実体のあるもの。最初は言葉の不便さに戸惑う。自由闊達に言葉を踊り、言葉を泳ぎ、言葉で飛べるようになるには、道具としての言葉に、余程長く、深く、辛抱強く付き合わなくてはならない。本なら全身全霊を懸けて熟読を重ね、ギターならぼろぼろになるまで弾き、書くなら言語野がスパークして、ショートして指が千切れるまで書かなければならないと思う。やはり僕はスポ根的なのだ。もちろん天才は違う。天才は根性なんて発揮しなくても、泳げてしまうのだと思う。にしても努力はもちろん必要だけれど、天才は努力しているつもりが無くても、心の底からの努力をどんどん面白く重ねていけるのだと思う。意識的な努力で天才と同じ領域まで行けるか?、と言うと、もし行けないとしたら悲しいことだよね。行けると思う。それに努力して身に着けた骨太な骨格が無ければ、若さ故の天才性は、それがいくらずば抜けていても、発揮できるキャパシティに限りがあって、早くに折れてしまうか、自己の模倣から惰性に陥ると思う。常に自分を高めていくのでなくては。中也は自分が努力したとか誰よりも勉強したとかは書かなかったけれど、それは自分を天然の天才だと装う為の格好付けだったかもしれないし、批評文では、勉強の必要性を何度も強調している。中也は日本で一番早く、全然有名で無かった頃の宮沢賢治を誰よりも熟読していたと思うし、少し意外だけど、当時はあまり評価されていなかった夏目漱石漢詩を高く評価していたらしい。詩にも「本なら熟読」と中也は書いているし、中也の、言葉に対しての感性が産まれ付きのものであったとしても、やはり日本語の熟読と熟考が、中也の日本語表現を完成させたのだと思う。中也の若い頃の作品は着想だけが走っていて、完成度は低いと思う。決して天性の言語力を持った詩人ではない。とは言っても、稚拙ではあっても、中也の着想はあまりにも美しくて、中也は、僕が熟読したいと思う詩しか書いていないし、書きたい気持ちに言葉が追いついていないことに、中也自身、自ら意識的で、それでもその時々の全身全霊を出し切っている、という感じがして、どの詩からも中也の声、歌がきちんと聞こえる。中也よりもっと若くして歴史的な詩を書いた人はたくさんいる。中也は後になるほど美しい詩を書いている、と僕は思っていて、それは彼が日本語を信じていて、日本語を愛していて、そしてきちんと日本語を道具として身に着けようと努力し続けたからだと、やや牽強付会ながら、僕は思う。中也より、もっと表面的な部分で、言葉を複雑に鮮烈に、ぱっと見るだけで天才的だ、と人に思わせるような詩を書く詩人はたくさんいて、それに比べると中也の詩は地味だ。全然カラフルじゃ無くて、例えば白秋と比べると随分モノクロだ。現代詩でもSF風だったり、とてつもなく個性的で、この人は頭がぶっ飛んでいる、と感じさせるような詩を書く人はたまにいて、すごいなあ、憧れるなあ、と本当に思うけれど、結局のところ僕が戻ってきて、ずっと読み続けているのは中也だけなのは、僕が中也を、(あえてこの言葉を使うけれど)愛しているからだ。本当の天才の作品は、天才性を感じさせない。寧ろ地味だと思う。ぱっと見てショックを受けるようなものではなく、一見して平凡に見えるのに忘れがたい、というのが本当の天才性だと思うし、それにはやっぱり不断の努力が必要だと思う。深い場所は決して煌びやかではなく、静かで、地味で、けれど心の深くにはおそらく誰しもにとって普遍的な場所があると僕は思うし、普遍性が全然この世に存在しないならば、本当にいい作品が残り続ける、ということは無いと思う。もし、本当にいい詩や小説、文章を書きたいならば、伝統的な、人の心に残り続けてきた言葉を深く感じることと、ものすごくポップな言葉を新鮮に感じることの両方が必要だと思うし、そしてどちらかと言えば、伝統の方が大事なのではないかと思う。現代の言葉は忙しすぎて、それに慣れると心が忙しくなって、地味なものを味わう心が無くなってしまうと思うから。忙しい心では言葉は書けない。本当に、何ひとつ書けなくなる。現代の言葉でも、本当にいいと自分で感じるならば、よく読むのがいいと思う。第一印象では見逃していることが多いだろうし、何度か読んで飽きる文章なら、何故飽きるのか考えることも出来る。それから、現代において、地味なことを言葉にするのは、割に勇気がいる。すぐに評価されたいと焦ってしまい、きちんとした能力を身に着けることが疎かになってしまう。才能や個性があると見なされたい気持ちは、なかなか抑えられない。それで一時的に評価されると舞い上がってしまって、自分の才能を過信してしまう。地味な努力なんて要らない、と思ってしまう。そして、本当に大切な、静かな気持ちを見失ってしまう。もちろん、地味な作業だけじゃなく、スピード感と鋭い切れ味もたまにはいいと思う。面白いし、ポップな感覚は、強い喜びと、陶酔感と、生きていたい気持ちにも繋がるから。でもそれは案外一時的だ。僕はこの頃徒然草を読んでいるけれど、小林秀雄が評論で取り上げて有名になった兼好の言葉にあるように、本当に素晴らしい彫刻家は少し鈍い刀を使うのであって、切れ味に任せて手短に自己表現したり、便利さにかまけて、道具や技術の手入れを怠ったりはしない。地味に、言葉なら言葉という道具を過信したり粗末にせず、言葉の不自由さを十分念頭に置きつつ、同時にそれ故の言葉の無限の拡さや自由さを常に感じて、言葉の手入れを怠らないことが大事だと思う。言葉の手入れとは、熟読し、焦らずに、自分自身の言葉を書くこと以外に無いと思う。ゆっくり、じっくり読んで、書くこと。僕にはそれが出来ていない。自分への戒めとして書いてる。だって、一気にハイになって、脳内麻薬が大量に出て、光に塗れて、そのまま死ぬのが一番楽しいし、美しいし、気持ちいいことに違いないと思ってしまう。鬱状態の時は、焦っているので、落ち着きよりも躁状態を求めてしまう。けれども、人は楽しいとき笑うけれど、更に本当に楽しくなると寧ろ笑わない。本当の楽しさは、アッパーよりはダウナーに近くて、脳の活発な働きよりも、無の境地に、最大の楽しさはあると思う。その状態は一過性のものではなく、研鑽によって身に染みついて永続するものだと思う。人はおそらく、道具を極めることによって、身体の不自由さや、生の有限性、つまり死を克服できると思う。……僕は考え不足だし、まだまだ刹那的なので、これ以上は書けません。ただ、この世の有限性をしっかり知ること。それが無限に向かう唯一の道だとは思います。

冗長な文章を書いてる。途中から、別のことを書きたくなっていた。

一端アップロードします。