日記

8月19日(水)、
夜中、1時、ほんわかした気分になる。生きていけると思う。

午前4時、眠っていないけれど、とても心が軽い。

午後5時半、1時間眠った。なかなか、悪くない気分だ。

正午、1時間眠った。すっきりした。

MacBookが欲しいと思う。MacBookProの16インチ。いや、やっぱりiMacかなあ。iMacの27インチ。素晴らしいディスプレイだった。

詩、母には不評。僕らしくないとのこと。中也に影響を受けたのはよく分かるとのこと。今月の初めごろに書いた詩は、なかなかいいと言ってくれた。僕は冗長だと思っていた詩については、もっともっと長くてもいいと言ってくれた。

パソコンが少しばかりバグってしまって、ここ一週間ほど、間に合わせに中古で買ったノートパソコンで書いている。パソコンは、壊れた訳ではないみたいなので、修理に出そうと思ってる。

夜、静かな気持ちでいる。昨夜、お酒で薬を飲んだけれど、少しリラックスしただけで、殆ど何の効果も無かった。今夜は薬を飲まなくても全然平気だ。気分にはまだ少し波があって、けれどとても落ち着いていられる日が増えてきた。

 

8月20日(木)、
午前2時、もっともっと深いことを知りたい。

午前10時、何にもしたくない。ずっと音楽を聴いている。ニック・ドレイクトム・ヨークヴェルヴェット・アンダーグラウンド・・・、不思議だなあ、と思う。僕は十年前、多分、必死に生きていたのだろうと思う。多分。いろいろあって、生きるのが嫌になってしまっていた。諦めていた。毎日が死までの長い余暇だった。重い、鈍い神経を引き摺って、ただ心臓が動くから、低電圧の脳が、それでも惰性で稼働しているから、何もするべきこともなく、死ぬこともなく、かと言って生きることもなく、ただ身体の電源がオフになっていないから、というそれだけの理由で生きていた。

中原中也が大好きだ。13歳から18歳までは新潮文庫で中也を読んでいて、18歳からは専ら講談社文芸文庫の『全詩歌集(上・下巻)』で読んでいる。今は角川ソフィア文庫からも中也の全詩集が出ているみたいで、そちらの方が断然人気があるみたいだ。講談社文芸文庫は高価で、上下巻合わせると4000円もするのに対して、角川ソフィア文庫は一冊に全て纏まっていて1500円だ。余程のファンでなければ、この値段の差は大きいと思う。僕が講談社文芸文庫に拘る理由は、漢字が旧字体で、もちろん旧仮名遣いで、中也が書いたそのままの言葉を読めるからだ、というのがひとつと、あと単純に最初に買った全詩集が講談社文芸文庫なので、これで読まないとしっくり来ない感じがする。賢治も朔太郎も、新字体で読んで満足だけれど、中也だけは旧字体で読みたい。新潮文庫の中也詩集は、新字体だけど、本当にぼろぼろになるまで読んだ。残しておけば良かったかもしれないけれど、僕は定期的に過去を清算するようにあらゆるものを捨ててしまう時期があるので、どうせもう読まないから、と捨ててしまった。残っているのは賢治詩集(古文書のごとくぼろい)と櫻井真由さんの『トランス・トランス・フォーエバー』(同じくらいぼろい)など、幾冊かの本と、読書ノートくらいのものだろうか。あと、ぺんてるシャープペンシル。昔、と言っても十数年くらい前でしかなくて、それ以前から持っているものは、おそらく何も無い。僕は殆ど何もかもを捨ててきた。20年間ほど、毎日毎日、日本語で言葉を書いてきたけれど、残っているのは、ほぼここ1年間に書いたものだけだ。昔、完全な没頭状態というか、トランス状態で書いていた言葉たちは、絶望したときに全消去したし、その絶望感をずるずると引き摺ったままだった、鬱の期間に書いたものは、眺めるのも苦しくて、やはり全部まとめて消去した。苦しい時期に書いたものも、詩だけは残しているけれど、殆ど詩になっていない。呪詛みたいで、破綻してて、読むのが辛い。けれど、その苦しい期間を全然無かったことにしたくはないので残してる。読書ノートは普通のキャンパスノートに、日付と題名と著者名と出版社だけを書いた、とても簡易なものなんだけど、それだけでもタイトルを眺めるだけで、その頃の気持ちをふんわりと思い出すことができる。時期ごとの筆跡の変化を見るにつけても、面白かったり、胸が詰まりそうになったりする。話を戻すと、僕は中也が大好きで、中也の詩を読まなかった日は、この19年間、殆ど無いと思う。外出するときは、中也の詩集を必ず持って出るし、起きてるときは机の上に、寝るときは枕元に、中也の詩集を置いている。だからすぐ薄汚れてしまうのだけど、講談社文芸文庫は高いだけあって、カバーが破れたことは無い。中古で買った初版本だけは、見開き2ページを思い切り広げると、背表紙が折れてページが取れてしまったのだけど、新しい中也詩集はそんなことは無い。紙の質もいいように思う。新しい詩集が段々煙草の煙や自分の手垢で薄汚れていく過程が好きだ。鬱だった数年間は、読まなかったというより、読めなくて、読んでも何の感慨も覚えない自分が怖くて、それでも中也が好きで、というか中也が好きな気持ちを思い出したくて、詩集に鉛筆で書き込みをしまくって、中也の詩を分析したりしてた。使用する単語の傾向、行分け・行下げの仕方、テンポ、リズム、展開、イメージの流れ、起承転結、唐突な転調、文字の使い方、音、子音・母音の流れ、みんなメモして、本に書き込んで、そうすれば中也にまた近付けるのではないかと努力をしていた。書き込みをした中也詩集は、読み返すのが辛くて、捨てた。他に、燃やしたもの、ページが取れてしまったもの(初版)、主に鬱の期間に読んでいて、何となく読み返したくないもの、大切な人にあげたもの、があって、中也の全詩歌集は何度も買い直した。今は6代目だ。つまり上・下巻合わせると、『中原中也全詩歌集』は、今までに12冊買った。中也が訳した詩も『全訳詩集(講談社文芸文庫)』で一応全部読んでいるし、中也の日記と書簡と評論は何度も全て読み返している。中也が書いた小説は、読みにくく感じたけれど、ところどころ非常に美しかったり、どきりとするフレーズがあって、細部だけ妙によく覚えている。中也自身、自分の天分は詩にあると書いている。中也が訳した詩は、とても面白いんだけど、ランボーを訳しても中也の詩になってしまっていて、それなら最初から中也が書いたものを読んだ方がいい、と感じて、あまり読んでいない。あと、些細なことなんだけど、ここ数年の間に、講談社文芸文庫の『中原中也全詩歌集』の中のページの紙質が変わったみたいだ。新しい方はつるつるしている。どちらも同じくらい好き。旧い方は渋みがあって、新しい方は現代風で。

両親が眠ってしまう前の数時間、自分の身体が緊張して、血圧がだいぶ上がっているのを感じる。父が帰ってきてから、父には悪いけれど、どうしても緊張する。身体の力が抜けない。真夜中は落ち着く。父も母も大体2時頃に眠る。それまで、いつ部屋に父か母が入ってくるか分からないので、物ごとにうまく集中できない。それで僕は大体夜中の3時頃が一番元気で、読書も書きものも捗る。ギターを弾いたり歌ったり出来ない時間帯なのが残念だ。朝、父が仕事に出かける8時頃からギターを弾いて、歌ってる。それから正午頃に眠って、夕方に起きる、という完全に夜型の生活をしている。夕食は両親と一緒に食べるのが不文律みたいになってる。夜中の時間がとても好きなんだ。この生活リズムを、どうしても変えることが出来ない。おかげで友人と会えるチャンスを何度も逃してしまったし、昼間かかってきた電話には大抵出られなくて、夜中に弁解のメールを送ってばかりだ。実家は嫌いだ。自分の部屋は好きだけど。部屋に鍵を取り付けることを、父は絶対に許さなかったし、じゃあ勝手に鍵を付けようと思ったのだけど、ドアノブに合う鍵がどうしても見付からなかったので断念した。何にしても、例えば本などを積み上げて、ドアノブが動かないように固定しても、それはそれで両親に妙な心配を掛けるのでは無いかと思って余計不安になる。ドアの下に隙間があって、そこから物差しなどを差し込んで、本を動かして入ってくると思う。……とは言っても、本当に別に両親を恨んではいないんだ。ただ、集中できない。それは体質のようなもので、少しでも他人が気になると、全くひとりの世界に入れない。眠るためじゃなく、緊張感をほぐす為に睡眠薬を飲んだりしてる。……実家を出る為の何らかの努力をしなければ、自滅してしまう。父の年金と僕の障害者年金だけでは生活していけないし、働くと言っても、接客業は僕にはまず無理だし、肉体労働も無理だ。勉強して何かの資格を取れば、少しは状況が変わるだろうけれど、どうしても勉強に身が入らない。甘えているのは確かだ。小説を書くか、翻訳の仕事をするのが、僕には、体質的には一番向いていると思うけれど、言語力は萎むばかりでどうしようもない。……そう考えると、止め処なく焦り、落ち込み、寝逃げしたりして、何にも出来ないので、とにかく今は精神の回復が一番大事だと思うことにして、楽しいことだけを考えようと思っている。思ってはいるけれども、なかなかのうのうと生きられない。生活保護を受けて、二、三年間だけ、思いっきり自由に過ごして、それから仕事を始めるのも悪くないかと思うのだけど、他に希望が無いというのも情けない話だと思う。お金の無さで死ぬのは惨め過ぎる。父には「もう随分休んだだろう」と言われるけれど、その通りだと思う。でも、休もうにも休まらない。中也の詩集とニック・ドレイクの音楽があって、書くことが出来て、ギターが弾ければ、本当はそれだけでいい。そう思って、それ以外の何もかも売り払おうと何度も決心するけれど、本当に何もかも売り払うとしたら、それは僕が死を決心した時だろう。僕は生にしがみついている。自殺願望は衝動的で、薬を飲めば何となく、生きようと思ってしまって、ものすごく苦しいわけでもなく、自由な気分でもなく、ずるずると中途半端に生きている。さっさと死んでしまえばいいとよく思う。でも、死ぬくらいなら、採算抜きで、私家版でもいいので、きちんと詩集を作ってから死にたい。一度、自分の過去の作品をこの世から全て末梢してみて思ったのだけど、作品には作品の命があって、それを殺すことは自殺ではなく他殺だ。自分の作品であっても。何も自己主張をしたいわけでは無い。何か形のあるものを遺したい。きちんとした作品は、僕が死んだ後、僕の周りの人たちの慰めに、少しはなるかもしれない。稚拙か上手いかは、もちろん上手いに越したことはない。……せっかく与えられた命を使えるだけ使い切ってから死にたい。中途半端なままじゃいけないと思う。それなのに僕は今、とても緊張している。それは体質的なものだ。

日付が替わる直前、詩を書く(『遠く、遠くへ』)。