日記(眠いのは事実)

午前1時、昨日は大体寝てた。この頃、眠り王(ドラクエ6?)というか三年寝太郎みたいに寝てるので、母親に合う度に母から「久しぶり」と言われるし、大事な人からのメールにはまるで返信できなくて、「いや、寝てたんだ。本当に」と弁解することが恒例になっているし、「今日君の家に行こうと思うんだけど」のメールも毎回無視している形になって、結局友人とは去年から会えていない。昼夜逆転には、少なくとも人間関係には、弊害が多すぎて、でも、夜中の時間を愛している僕は、やっぱり自分のことしか考えていないのかなあ、と思う。夜中は大体起きていて、タイプ数カウンターによれば、大体午前0時から正午辺りまでが、僕の活動期間で、たくさん書きもするし、読書に静かに浸れる時間でもある。静か、って素敵だ。同じく夜行の、長距離運転であろう、トラックの音が断続的に遠くから聞こえてきたり、山に跳ね返って、まるで山から聞こえてくるような、夜中の、貨物列車の音が好きだ。半分くらいの時間は音楽を聴いている。読書が出来なかった間は、一日の半分以上を、音楽を聴いて過ごしていたのだけど、今は、夜の音も、音楽だと思って聴いている。睡眠薬を、睡眠の為には使ってなくて、夜、自分の頭に喧噪が起こりそうになった時、その、自意識の声を眠らせる為だけに使っていて、夜中に脳内麻薬、ドーパミンや、セロトニンや、エンドルフィンが気前よく出るようになっているのか、夜中に間には、安定剤を飲んでも睡眠薬を飲んでも、全く眠くならない。でもそのせいで、昼間薬効成分に堪えかねて、寝太郎になってしまうのかもしれなくて、正午辺りから、大体昼過ぎから、夜、多くの人々が眠りを意識し始めるのであろう時間まで、時には半日丸々、僕は眠ってしまう。そして日付けが替わり始める頃、僕のぱっちりした時間は始まる。駄目だと思う。社会復帰(?)のことを、今はまるで考えてなくてひたすら、自分の回復に専念している。本当に鬱の底にいた(と自分では思っている)数年間、僕は本当に自分のことを駄目だと思っていて、社会的にどうしようもないことも、常に頭から去らなくて、もちろん、そのことで、より腐っていたのだけど、今は僕は自分で自分のことが多分好きで、「君は働いていないね。君に価値なんて無い」と言われでも、多分「その通りだよ、うずうず」とはならずにいられると思う。「僕と君との共通項は、多分、多分人間であることだけで、nobodyではなくsomebodyで、0ではなく1で、仮に僕が何ものかであろうと、無かろうと、君が何ものかであろうと、無かろうと、揺るぎなくお互いに、ただの人間でしかなくて、人間であるなら、僕は君の姿が見たい。君の意見や価値観なんて知ったことじゃない。僕は君の宇宙を尊重する。君が例え僕のことをどう見ていようと。君が君の価値観で僕を断定したとしたって、僕はもはや傷付かない。それは君自身の言葉じゃ無いし、君自身だって本当はそんなこと信じちゃいないのだから」云々、とおそらく相手の神経を逆撫でするようなことを、僕は言うだろうし、言わないかもしれないし、でも僕は別に自分を弱い立場だとは思っていなくて、それが身の程知らずに映るかもしれないし、だとしても、僕は寧ろ逆撫でしたいし、あまりにもの僕の身の程知らずに、相手が困ってくれるなら、腹を立ててくれるなら、それはそれで嬉しい。悪趣味かもしれない。「でも、社会はそうなってるの」と言われても、まるで太宰(『人間失格』)の台詞みたいだけれど、「社会じゃない。君がそう言うんだ」と僕は言うだろう。言わないかもしれない。父にも医者にも、特にこの頃は医者には「社会はそうなっているんですよ」と毎回言われている。僕が夜は早く寝て、朝は早く起きる、を頑なに実践しないこととか、働くことや将来の展望についてあやふやなこととか、保健所の人が僕の悩みを聞いてあげようとわざわざ訪問してくれたのに、僕は部屋から出なくて、「向こうが来るのは勝手だけど、僕が会いたくないのも勝手です」と言ったときとか。父には数年前まで、「社会はそうなってる。社会は甘くない」と15年間くらい、毎日言われていて、その言い方には切迫したものがあって、代わりに祖父母や母には「好きなことをしたらいい。楽しいのが一番だ」と言われていて、特に祖父は「じいちゃんは、本当に今まで働いてきた」と楽しそうにいいながら、僕には働けとは多分一回も言ってなくて、僕がいつもいつも本を読んでいて、祖父母の家でもいつもポメラで書きものをしていたら、祖父は「また小説か」と言いながら、「読んで楽しいだけではいかん。読んだものは必ず身に付けないかん。役立てないかん」と言いつつ、「お前は小説を書いたらどうだ」と、よく僕に言っていた。僕がかなり鬱になって、読み書きも出来なくなって、いつも泣きそうな気分でしかいられなくなってからは、それでも父には「社会は辛い。とにかく働くことを第一に考えろ」と言われつつ、祖父母や母や親しい親戚(いい人ばかりだ)には、「とにかく休め。鬱が治ってからだ。それからだ」と言われていたのだけど、僕がてんかんか栄養失調か何かで倒れた時には、母には「目の前で倒れられたら怖い。出来たら自分の部屋で倒れてくれ」と言われ、父は僕が倒れたとき、すぐ脈と呼吸を調べて、両方とも止まっていたので、即座に僕に人工呼吸をして心臓マッサージをして、救急車を呼んで、「てんかんだったら、心臓マッサージは必要無かったな。びっくりした。死んだかと思った」と言われて、それから「何年間でも休むことだ。お前なら何でも出来る」と急に言われて、僕はそれにはまた別の意味で、とてもびっくりした。それで父には、今まで父のことを誤解していたと思う、という手紙を、震える手で(何年間も僕は手の震えが止まらなくて、キーボードで書くことも、ギターを弾くことも困難で、手書きが特に一番難しかった)書いて、でも、社会についてとても辛く厳しい観念を持っている父も、僕の心や身体の回復を願っている父も、紛れもなく父で、でも後者の方が本当は、本当なのかな、と思って、しかし、そう思ったからと言って、すぐには良くならない自分の精神に絶望的になったし、読み書きが楽しい自分が全然戻ってこなくて、死のうかと思う気持ちは、かなり最近まで変わらなかった。
僕は全体的に嘘を吐いているのだろう、と思って、散文を書いた(『日常的なこと』)。言葉や音楽や人のことが、僕は好きだとか嫌いだとか、そういう風には捉えていないのではないかと思った。ただ、必要なんじゃないだろうか。

午前9時、何だかぼんやりしていた。右の眼が充血していて痛い。少し考えるのに疲れたので、一度眠って、頭の中を整理したいと思うのだけど、横になっても、何か、すぐに飛び起きなければならないような、落ち着かなさを感じる。落ち着けばいいな、と思ってエビリファイを口の中で溶かして飲む。これは、確か、何だっけ?、統合失調症の薬なんだっけか、僕はありとあらゆる病名を付けられた結果、「統合失調感情障害(統合失調症と躁鬱の両方の症状があるとされる)及び自閉症スペクトラム」という何だか強そうな、非常に優柔不断な病跡学者がゴッホなんかに無理して付けたような、それで一体何を治せばいいんでしょうか?、と問いたいような、そもそも病気じゃないような、変な診断名を貰ってる。病気というのは結局、苦しいときに眠れない、というそれだけのことなんじゃないか、と思うことがある。安心して眠れる為の子守歌を死ぬほど求めている。でも、全てを他人が与えてくれる訳じゃない。完璧な眠り、って言うのは、結局、今自分が10のものを持っているとしたら、その10を出し切って、もう空っぽだ、というときにしか訪れないのではないかと思う。僕が、僕に、もう眠ってもいいよ、と言えるとき。今すぐ自分の中にあるものを自分が把握することは難しいし、それを引き出す方法も持っていないけれど、自分の100%を出せる見通しがあって、きちんとその時に自分が連なっているという感覚があれば、束の間の安息は得られると思う。

午前11時、全ての人が幸せならいいなあ、と思う。そこに僕が含まれなくても、含まれているのと同じことだ。

セロクエルを飲む。今日も、昼過ぎから熟睡してしまいそうな予感がする。

何だかひどく病んでいるようなことを書いていますが、僕は元気でいます。僕は創作をしたくて、過去の自分を精算したいような気持ちでいるのと、あと単純に書いているのが楽しいです。

僕は多分、観念的だと思う。観念的でも小説は書けるけれど、でもそこには味は無い。味の無いものを書きたい願望があって、でもそれはきちんと僕の記憶や感情に則っているのでなくては、あまり書く意味が無いと思っていて、ただ観念や世界観を説明したいだけなら散文で十分だと思ってる。実存主義という僕には理解出来ない難しい言葉があって、それは要するに今だけがぱっとあって、例えば他人や、創作でいえば登場人物に、過去の重み、とか願望とか、そういう情緒的なものを認めないというか、ばっさり切り落として、今だけが全てなんだ(全ては次の瞬間豹変するかもしれない。過去は宛てにならないし、第一その存在を実証できないし、未来は現に無いのだから)、という立場なんじゃないかと勝手に思っていて、人生の重み、だとか、この人が言うからこそ重く響いてくる言葉、だとか、そういう、含み、みたいなものは世界には全然無いんだ、という単純で明快なことを基準にして、そこから、じゃあどうして記憶とか、実感とか、変わらない自分の感情とかが出てくるのか?、という問題には移行せずに、あくまで自分の現在の態度が全ての全てなのだ、と説いたのが(大分間違っている気もするけど)実存主義なのではないかと、かなり大雑把に僕は思っていて、そんな考えが出てきてしかも支持されたのは(今はどうか知らないけれど)、誰もが想像や妄想や連想や憶測に疲れて不安だったからで、一回全部を、ただ表面的な情報だとか現象に戻してみよう、そこには本来そこにある情報以上の何も含まれていないでは無いか?、と考えた方が(大雑把に言って)楽だったからだと思う。でも、それを原理主義的に何処までも推し進めることは、全然していなくて、「世界は意味の無い現在の羅列なんだ」というところから、実存主義は一歩も進んでいないと思う。現在や、情報や、今自分が見ているものの表面的な意味まで疑うことはしない。「現在に囚われ続ける自己」という図式を無邪気に信じすぎているし、無意味さに抗い続ける、ということは言うけれど、どうもそれは最終的には根性だぜ、と言われているみたいで納得できない。そして、それ以後に出てきた哲学となると、難しすぎて、もはや漠然とさえ分からない。何かしら書きたいことはあるのだけど、あまりに眠いので、もう何も考えられません。