日常的なこと

唐突に自傷のこと。自傷はしなくなった。多分、僕くらい腕をたくさん、深く切りまくっている人は、日本にはほぼいないと思う。「何故切るのか理解出来ない。でも、切ったときの安心感とか、脳内麻薬がたくさん出ることとか、救済とかがあるのだろうと思うし、切らなければ生きていけないほど、絶望しているのだと思うし、それほどの絶望を私は知らないし…」という意見が多いけれど、それはかなりずれていて、でもずれているなりの優しさはあって、その優しさは、切ってしまう人のことを、自分と同じ人間としてなるたけ理解したい、理解出来ないから切り捨てるなんてことをしたくない、という優しさで、多分その優しさのおかげで、僕は生きてこられたのだと思うけれど、自傷って多分、それを普遍化したくはないけれど、空虚なものだと思う。自己嫌悪もなく、救済もなく、絶望も、辛ささえもなく、でもそこからの喜びはあって、その喜びは、人を殺した喜びに似ているかもしれなくて、突発的に世界が滅びて、人たちはみんないなくなって、滅びた世界から脱出する為に切るんじゃなくて、もっと、すとんと最高速で落ちて行く為に切るような感じ。自己の消滅を完遂すること。そしたら笑える。心の底から笑える。でもその笑いは、世界に属していない。宇宙の果てで、全ての星を消滅させるスイッチをけらけら笑いながら手首で、骨が折れるのも構わず連打出来たら、永遠に笑える。きっとそれは心の底から楽しいだろう。そしてそれは人間的ではないだろう。でもそれを人間的に理解してくれようとする人の、緩慢な優しさは、僕をゆるくゆるく、空虚感の中、空虚の外で、僕の外で、僕の外形を保たせてくれるだろう、ということは、空っぽで宇宙的な僕を病院へ搬送してくれる母や、心からいたわって、嘘じゃない同情と共に僕の腕を複雑に縫い合わせてくれて(まず血管を縫って、それから皮膚を縫う)、自傷ではなく事故として(自傷は保険が効かない)書いてくれるお医者さんや、「先生は縫うのが上手ですね! ありがとうございます!」と何故かお礼をはしゃいで言っている僕とか、いろいろな僕の外にあるものが、僕の形を生活の中に保たせてくれていて、僕は無意識的に言葉をいっぱい書いて、言葉にはこの世とのコンタクトの可能性が少し含まれていて、そしてそのコンタクトが通じた、と思ったとき、僕はまた実は地球は消えていなかったと発見したように、ご都合なことに、それはそれで大喜びだった。空虚だったけれど、空虚なりに、僕は僕だった、と今僕は緩慢に、そう書くことが、出来るだろう。世界は簡単に、あちら側にシフトする。こちら側へとリセットするのは、何なのだろうか? 僕の信仰は、言葉なんじゃないだろうか? 僕は簡単にころりとあちら側に行く。あちら側もこちら側も無いと感じたのは18歳の時で、それから実家に帰ってからは、ずっとこちら側があちら側にあった。あちらとこちらを行き来できるのは、生きていないものだけ。情報。記号。0と1。「生きていますかー?」と「生きていますよ」の通信の中、生きているのは何だろう? Break on through to the other side! 言葉を信じてる、ということは人を信じてる、ということと同じだろうか? 同じときがある。音楽が0と1なら、僕は0と1を信じる。感情的なコネクト。それは結局情報によって為される、それは錯覚であり、信仰であり、僕の唯一の、甘えであり、僕個人の意味、その根拠。実在するものなんて何も無い、としたら僕に触れてくるこれらは何だろう? 僕は言葉を信じているし、音楽を信じているよ。それは、好き、とは全然違うかもしれない。それが無ければ、僕という統合されたあるもの、が消えるかもしれない。消えたくないのだろうか? そもそも何で、僕は自傷をやめたのだろうか?
僕は人を信じたい。すごく信じたい。人がいなくなるのは嫌だ。僕の存在を認めてくれた人が、僕を見てくれなくなるのが怖い。僕は何処にいるんだろう? 僕は消えてもいいんじゃないだろうか? 宇宙巡りはもう嫌だ。現実の中で苦しんで死ねるなら、そう信じられるなら、現実だと信じたい、この、世界の中で苦しんだ方がいい。お墓に入って、満足、と書いてみて、でもそこに何の感情的重みも無いことにびっくりする。いや、当然だと思う。50年生きたい、と書いてみて、50年って何だろう?、泣きたくなるのは僕の不遜だろうか? つまりただ、僕はこの世界に生きていて、ただ馬鹿なのだろうか? 「安定してる」とか「不安定」と言っていて、それが嘘だと思うのは、そう言う僕の言葉がとても、とても軽いと思うのは、僕が本当は誠実だからではない。僕が自分を優しくない、優しいと言われると戸惑うのは謙虚や自己嫌悪からではなく、悲しみや記憶からではなく、分からないからだ。あちら側とこちら側の通信と書いている僕は現実の中で乖離性で離人で、乖離性と書く僕はただ自己規定してて、自己規定するのは現実の中の気取りで、よほど普通で、普通に普通じゃない人を普通に演じている僕は、でももう僕の普通が分からないよ。でも演じているんじゃなくて、それが普通なんだよ。誰にも自分のことは分からなくて、それが普通なんだよ。分からないよ。僕は病気です。と書いている僕は普通だよ。病気だと良かったよ。と書いている僕は異常を演じている普通だよ。普通なら良かったよ。と書いている僕は、単なる生活者で、注目されたいだけだよ。誰が見ても僕は普通の人間だよ。普通だったらいいのに!
誰もが多分、自分が生きている世界を基準に、誰もが同じ世界に生きていると思っている。僕は誰もが生きていると思っている世界を仮定して、想像して、でも、誰もが、君が彼らが、誰かが、生きている世界と僕の世界は全然違うと分かってる。お互い、違うんだ。誰かと誰かの世界は違う。僕は何が言いたいんだろう? 僕は何を求めているんだろう? 「私のことが嫌いになったんでしょう?」「お前は俺のことが嫌いなんだろう?」とよく言われる。そうじゃないと何度言えば分かってもらえるのだろう。分からない。僕のことをそんな風に理解しないでくれ。もっともっと想像してくれたらいいのに。良いように想像して欲しいんじゃない。どんな想像からも僕は懸け離れている。僕の想像が、誰の存在からも懸け離れているように。距離ではなく、ただ、違う世界として。でも、だから想像するんじゃないのか? 断定しないでくれ。僕を、理解しないで。と書いている僕は、人に、何を求めているんだろう? 音楽に触れられるように、人と触れあえたら、どんなにいいか。僕は音楽なら良かったよ。事実や意見。生活、感情、悪意、感傷。僕には分からないよ。分からないから一端書くのをやめるよ。