みんな虹になって

昨日、と一昨日は、随分力んだことを書いた気がする。熱くて眠りが浅くて、一日に少しの時間、自分を取り戻す感じがあるのだけど、取り戻したことについて書いているときには、もう自分がすこしあやふやになっていた。詩を書くときは、詩の出来はどうあれ、自分を保っていられる。「好き」の感情に忠実に書いていられる。日記には、生活的な、嫌な感情が含まれていたと思います。言葉って、本当に不思議だけど、誤魔化しが効かない。

(丸括弧の多い文章になった。)
昨晩は七輪で焼き肉を食べた。牛肉がメインなんだけど、鶏肉がメインで「焼き鳥屋さんみたいだね」「そうだねー」と言いながら食べた。平和かもしれない。やっぱり飲み過ぎてしまって、後片付けもそこそこに(父と母が主に後始末をした)、部屋に帰ってぶっ倒れてた。3時間くらい。僕の家はお洒落でもなくただの郊外の郊外の郊外の、辺境の地にある住宅街の一軒家で、周りも大体同じ、二階建て・庭付き、時々犬がいる。お洒落な店なんてどこにもない。お家で父親がローストチキンを手作りしたり、母がケーキを焼いたりするような(ベタだけど)家柄ではない。でも、父は時々、豚バラ肉の角煮というのかな(焼くんだけど)、それをキャベツに挟んで食べる、美味しいのを作る。和風だ。父は先祖は足軽だとよく言っている。父方の先祖が平家の落ち武者だ、というのは、多分本当らしくて、父の田舎には(つまり田舎のさらに田舎には)、平家ゆかりの地名がいっぱいあって、その地名の内のひとつが、僕の名字だ。ただしありふれている。それで、父は、平家の貴族たちのその下の、武士たちの、その下の、一番身分の低い足軽みたいなのがうちの先祖だ、とよく言っている。母方は……母方の話はまあいいや。3時間倒れていたら、酔いもすっかり醒めて、それでノイローゼ気味だった僕の血液も肝臓でついでに浄化されたのか、少し、何だか、幻想小説の中にいるような、お洒落な(って何だろう?)気持ちになって、月を見て、「分かるの。月を見ている人の眼の中にはね、月が宿っているものよ」という櫻井まゆさんの小説の台詞を思い出して、自己愛性なのかもしれないけれど、憂鬱ではない感傷みたいなのに浸っていた。
Marshallのアンプはやっぱりあんまり使わないなあ、VOXだけをメインに使いたいから、Marshallは売ろうかな、と思っていたんだけど、焼き肉のとき、母がテーブル代わりに持って来ていた段ボール箱を見ると、Marshallのアンプの箱だった。「それ、売るかもしれないから汚さずに使ってね」と言ったんだけど、やっぱりビールの染みとか、肉の脂とかがいっぱい浸みて、僕は少し、iPhoneの絵文字にある、どういうシチュエーションで使ったらいいかよく分からない、微妙な半笑いの表情みたいになっていたと思う。

全ては古びていく。古びて磨れて、消えていく。僕もそう。

好きな楽器だけ弾いて生きて行けたらいいな。ピアノやギター、チェロ。僕はアナログな楽器が好きなんだと思う。クラシック音楽も好きだ。言葉も、自由に演奏出来る領域に行きたい。一生同じ楽器だけを弾いて行けたらいいのに。キーを叩くことだって、一生続く演奏みたいになればいいのに。

音楽が、ヘッドホンの中で、自分のための音楽だ、と、親しく感じられる時間が好きだ。

頭が、少しずつ回復してきた気がする。死んでいた感情も、言語回路も、そろそろ復旧の目処が立ってくればいいのですが、自分の思惑を超えて暴れ出すといいのですが。詩や小説を読んでも何も感じないし、寧ろ僕を包んだ薄い酸素がさらに張り詰めるような気がしていた。長い間。言葉を書くことに憧れている僕が、言葉から何も感じないのは、最初は奇妙だったけれど、殆ど意地と、言語力の維持のためだけに読んでいた。最近、部屋の本を整理しようと思っていて、大きな袋を倉庫から出してきて、それにどんどん本を放り込もうと思ったのだけど、一冊手に取って開いてみると、それが始めて読む本みたいに新鮮で、書かれている内容もそうだけど、そこに活字があるというだけで嬉しくて、嘗めるみたいに読んで、味や情景や記憶を脳の奥底から掘り起こされるような感覚が気持ち良くて、本の片付けをしようと思ったのに、寧ろ本が増殖していくような気さえする。改めて、本をたくさん買ったな、と思う。椅子の周りが、膝の高さくらいまでの、本の山脈に囲まれていて、部屋を出るたび、椅子からベッドに移るたび、その山を崩さないように、注意深く足を持ち上げなければならない。
もう一度、ずっと昔の、世界が全てヴァーチャルに見える状態に戻りたいか、と言えば、答えはいいえだけど、その頃は、今の僕から考えると、異常なくらい物ごと、いくつかのことに集中することが出来ていて、一晩中書いていても、まだまだ書きたくて、身体が疲れ切って意識が途切れ途切れになるまで書いていたし、声が嗄れて、血が出るかな、と思ってもまだ歌っていた。一度言葉の世界、歌の世界に入ると、意識があちら側に、あちら側がこちら側に、シフトしてしまう。そういう感覚は、今は全然無くて、いつも、疲れが抜けきる直前にいるみたいな気がする。あともう少し、というところで岩があって迂回、沼があって迂回、空の模様にうっとりして、心がすーっと身体を抜けきってしまう、もう少しで自由に息が出来る、と眼を瞑りかけた辺りで、ふと母のことが気になったりする。今、僕の部屋のすぐ下で、疲れて息をしているか、あるいはほんの少しふくよかな気分でいるのか。

夜10時、何か口にしなきゃ、と思って冷凍のパスタを温めるけれど、食べる気にならない。でも食べないとパスタが不味くなってしまうと思って、無理に食べた。

みんな透明になればいいのに。でも物質的に溶け合っても、心は混ざり合わないのだろう。