創作ではなくて生活のこと

8月5日(水)、
結局眠らなかった。朔太郎のことを悪く書いたけれど、僕は朔太郎が好きだ。言葉が気持ちいいって単純に素敵なことだ。気持ち悪いことも含めて。

「会社を建てたら自分の名前を付けたいなあ」きっとそれは熟れた太陽のように素晴らしいだろう。

日付けが替わる少し前。お腹がしくしくと痛い。ここ数日、慢性的に(と言うほど長くはないけど)お腹を壊している。ひとのことが分からないなどということを書きながら、ひとの存在に反応して、とても緊張している。

 

8月6日(木)、
午前3時、1時間ほど眠った。昨日の昼、冷凍のパスタを食べてから何も食べていないせいか、お腹が空いたので、冷凍のシュウマイを食べる。

午前5時、自分が意固地な気分になっているのが分かる。何か楽しいことでも考えよう。

昨日書いていた文章で、抜けてたと思うこと。

感傷家が感傷を意識してはならない。ひとが分からず屋に思えるから。「僕はこれこれを知っていて、君たちは知らない」というスタンスにはある程度正当性はあると思う。それは多分、みんな多かれ少なかれ思っていることだから。僕は概ね、自分の悲しみや、孤独や、自分が感じた(自分にとって)大きなことや、辛さや苦しみに、夢中になってしまう。僕は感傷家だと思う。でも、悲しいからって悲しい顔してギターを弾いたり、自分の悲しみを山詰めにして詩や小説を書いたりするのは、矛盾している。表現とは優しさであると思うからだ。そこでは丁寧さと、ちゃんとした技術と、礼儀正しさがものを言う。人が、人に何かを伝える為の技術には、長い歴史があって、例えば言葉だって自分が作ったものではないし、ギターも、音楽理論も、言語表現の形も、全ては先人たちの膨大な努力の賜物であって、それらは長い時間をかけて、人の心や手によって、熟成され、洗練されてきて、その結果として、今の美しい形がある。その美しさに対するリスペクトが必要だと思う。「俺は悲しい。孤独だ」ということをただ叫んでも、それは自己愛以上のものにはならない。誰にも、何にも伝わらない。自分の悲しみには、飲まれてしまうよね。でも、飲まれたままでは表現は出来ない。自分の感情や感傷を過剰評価したとして(また、それは無限に過剰評価出来るものだ。自分にとっては自分自身が全てなのだから)、一体それを、誰に伝えようというのか? 表現とは形だ。自分の感情の豊富さを撒き散らすことではない。また、撒き散らしたとして、一体それを誰に伝えようと言うのか? 誰かに伝えたいならば、精一杯、完璧なものを作ろうと努力するべきだ。感情の豊富さや孤独なんて、当たり前で、当然のことで、大事なのはその後、他人の心に何かを伝えたいならば、他人の心を尊重しなくては始まらないし、他人の心を尊重するならば、出来るだけ丁寧に、手抜きせずに作ろう、と考えるのは当然のことだと思う。泣きたい気持ちを泣いて表現するのは、表現とは言えない。日々努力し、淡々と、きちんと表現すること。創作論みたいなものがあるとすれば、大事なのは多分それだけだと思う。僕が大好きなニック・ドレイク中原中也も、作品の中で泣いたり喚いたりしない。丁寧であること。優しくあること。優しさとは、完全な孤独の中で、それでも他人の存在を、理由も、根拠も抜きで、ただ一心に信じることだと思う。
遠い気持ち、でいること。自己に執着しないこと。自然に何かを好きな気持ちを大事にすること。自分が何かを知っている、と思うとき、その考えに固執するとき、自分が例えば全宇宙だと言いながら、自分の世界はものすごく狭まっている。ここで、僕は別に、創作論を書きたい訳ではなく、普段の生活での、自分があるべきスタンスについて、主に考えている。僕は、自分が何か偉いもののように思えることが、非常に多い。そういうとき、僕は自分が孤独だと言いながら、その裏側では、他人と自分を比較して、悦に浸っている。ひとを見下す傾向にある。僕は何か大事な(多分宇宙的な)ことを知っているので……という考えでいっぱいになると、謙虚さが全く無くなる。身を低くして人から学ぶ、という大切なことを、つまらなく感じてしまう。そして、人に伝わらない、伝わらない、と嘆く。言葉に対する自然な興味、言葉、例えば詩から何かを強く感じるということ。ただ、そのままに素直に感じること、学ぶ姿勢、大事なことを、意固地になって忘れる。人の言葉を素直に感じるのではない、ただ自分の意見を補強し援用するものとして、頭から批評的に読んでいる、ということに気付かない。「これはいい。これは駄目だ」ということが分かるような気がして、いいとか駄目だとかは考えるし言うけれど、感じられなくなってる。ニック・ドレイクはいいんだ、孤独だから、と思ってニックを聴くと、非常に狭い、一面的な側面からしかニックの音楽を聴けない。そのことに気付けない。ただ、人にはニックは分からないだろう、とますます自分の意固地さに閉じ籠もり、寂しい、孤独だ、なんて言ってる。その危険性は熟知していているつもりで、でもそこにしばしば引っ掛かるのだ。

午後7時半、半日くらい寝てた。今晩はこれから外(庭)で焼き肉だ。自己批判をし過ぎただろうか?