僕は間違っているかもしれない

華やかな気分になりたい。なりたくない。虫が鳴いているのは永遠のようで美しい。

昨日飲み過ぎて、横になっていると気持ち悪いので起きてる。午前1時。
身体が、アルコールを分解していくまでの時間。

午前3時、ビートルズのドキュメンタリーを見てた。現在のポール・マッカートニーも若いけれど、リンゴ・スターが驚異的に若い。40代を超えているようにはとても見えない。もう80歳をとっくに超しているはずなんだけど。
まだアルコールが抜けきっていない。悲しい。

午前4時、昨日届いたネックプレート(チタン製)をテレキャスターに付けてた。ネックプレート(ギターの、ボディとネックを繋ぐネジに挟む金属板、と言ったらいいのかなあ)一枚で音がすごく変わる、と書いてあったのだけど、本当にすごく変わって、そしてそれは僕の好みの音では無かったので、悲しい、というか半分ほっとした、かもしれない。やっぱり今のままの音が最高なのだなあ、ということの再確認、それだけに3800円も払ったけれど、今の僕はお金とは別次元の世界にいる(お金は無いけど)ので、あまりお金がどうとか考えるよりも、ギターを弾いて宇宙に行って、キーボードをカタカタ叩いてまた宇宙に行くような、、、昔、僕は本当に自分のことが分からなくて、その答えを14歳の頃、切実に求めていて、それは社会的に僕がどうとか、落伍者だとか不登校だとか、そういうことは本当にどうだってよくて、ただ、この宇宙が何なのか、知りたかった。みんなが(みんなじゃないだろうけど)宇宙や、生活や、地球のことを、当たり前に存在することのように喋っている、その中に、当たり前のような顔をして僕は存在していたかった。空が奇麗、という感じがしなかった。空はただ、青だったりオレンジだったりするただの情報に過ぎなくて、それが存在することの根拠が何処にも無い、ただ僕の中で発生する情報。人間が人間だと分からない、それが何年か続いて、そのとき僕は、人を簡単に殺せると思っていて、殺しても何の感動も無いだろう、と分かっていて、それは、もしかしたら今もあんまり変わってないかもしれない。高校に行っていたとき(15歳の時)、最後に登校した日に同級生に「明日、俺はいなくなる。死ぬかもしれない」と言ったら、「君が死んだら悲しい」と返されて、僕は「でも君は俺のことを何にも知らない訳で、君の中で、俺が死ぬ、ということは、君が思っている
(……と書いているとき、キーボードのキーの隙間に、小さいカミキリムシみたいな虫が潜り込んでいくのが見えたので、キーボードを分解したのだけど、虫なんて何処にもいなかった。幻覚ということはまず無いと思うのだけど、……と書いていると、キーの隙間にやっぱり虫が動いているのが見えたので、もう一度キーボードを分解して、今度はうまく摘み出せた。小さい、動きの速い虫で、部屋の何処かに逃げていったけれど、害は無さそうなので深追いしなかった。とりあえず潰してなくてよかった。今は有機物を意識したくない。……書いてた文の続きを書く。)
僕、という概念がただいなくなる、ということだし、概念は概念で、君の中に残るよね。そして、その概念は、僕ではない。君が失うものは何ひとつ無いはずだし、つまり君は想像上の僕を失うだけで、その想像はいくらでも、俺が死んだとしても、補完できる訳だし、俺が死んで、君が困ることなんて何ひとつ無いはずだけど」ということを、理屈っぽく言った。その頃の僕は実感というものがゼロで、理屈だけで物ごとを考えていて、この世界は全く無意味だと思っていた。無意味というか無。それで、その同級生は困ってて、むにゃむにゃと「でも、こうやって、明日から君と話せなくなるのはやっぱり悲しい」ということを言ったのだけど、僕はその言葉は無視した。と言うか、彼がそういう情感に訴えるような何かを言ったと思うのだけど、僕は意味不明だったので忘れた。僕は、誰彼無く、もう死ぬ、と言い回っていて、実際死ぬつもりだったけど、大事な友人に最後に「死のうと思う」とメールで送ったら「君が死んだら困る」と返ってきて、それでちょっと感動してたりした。人のことは動く視覚情報でしかないと思っていて、でも友人のことはただの視覚情報では無い何かだと感じていたけれど、その感じに名前を付けることが出来なくて、僕はけっこう混乱していた。動いたり音を発したりする人の形をした情報(他人)は、いてもいなくてもいいし、むしろいない方がいいし、だから僕は人といて緊張する、ということの意味が全く分からなくて、高校の、全然話したことの無い先生と電車でたまたま隣り合ったとき、話の中で「実は私があなたの入学を推薦したんですよ」と言われて、僕はよく分からないので笑っていたけれど(僕は大体いつも軽く笑っていた。人と関わり合いにならない最上の表情)、「面接の感じがとても良かったから」と言われて、それから先生は嬉しそうに何か話していたと思うのだけど、それから何ヶ月か経って、その先生は生徒指導の顧問か何かで、僕は生徒指導室に通っては人生の無意味さについて語り続ける、という迷惑なことをしていて、先生をとても困らせたと思う。僕は本気で「生きていればいいことがある」という以外の答えが欲しくて、でも、じゃあ、今の僕は「生きていればいいことがある」ということ以外に何か言えるのか?、と考えては、分からないという矛盾を感じてしまっていて、でもその矛盾はその頃から感じていて、全てに意味なんて無い、人なんていないのと同じ、と一方では考えつつ、一方では音楽とか文学はまた別で、好きな人の存在はそれとは別枠にしてて、でもそれは感情論とは違う、と考えていた。眼に映る風景、五感とは違う何かがあって、例えば僕がずっと朔太郎は駄目で、中也は天才だ、と思い続けている理由は明文化できて、朔太郎は現実の存在を前提にして、その中で特殊な現実を、上手いこと表しているけれど、中也は五感も情報(知識)も歴史も物にも、常に疑いを持っていて、自分を離れた、確固とした、客観的な世界の実在を疑っていて、なのに時々寂しくてか、感傷で人に馴れ合いたいような詩を書いてしまうところもあるけれど(それも好きだし)、言葉にできない純粋な何か(絶対にそれだけは自分にとって真実であるもの、つまり自分)だけを書いていて、書いているけれども、それは言葉にできないし、原理的に伝わらないから、書いていない。けれど何も書かなければ何も伝わらないし、人に何か伝わればいいと思って、何かを書きたい自分がいることも事実だから、一応書くけれど、書いている内容そのものには意味が無いので、中也が書いた詩という情報を、その文面からよく想像して、そこから何かを汲み取ろうとしても、例えば中也が何か情景を書いていても、情景自体は得に意味が無いのであって、ただそれを感じている中也という心があるだけだ。その心にも別に意味は無いけれど、でも中也がいるにはいる。僕の存在に意味は無いけれど、何か感じたり、求めていたりする僕は何故かいて、何かを伝えたいし、誰かに出会いたいけれど、それは原理的に不可能で、けれどそれが不可能であるということを重々分かっている人と、馴れ合いでは無く、本当に伝えたいことは言葉にならない、ということを前提にして話をすれば、もしかしたら何か、感じ合える、と感じられるものがあるかもしれない、でも現実的に、会話とは現実の中で現実を引き合いに出して成り立つものだから、話せば話すほど寂しいし、嘘になるから悲しいし、コミュニケーションとは、親密になるほど、離れてしまう何かなんじゃ無いかと思う。僕が現実の中で求めるものは、現実の中には無いかもしれない。無いと思う。でもそれは文学にはあるし、音楽にもあると思っていて、それは、それらが抽象だからで、「人生ってこういうものだよね」とか「こうすれば楽しいし気持ちいいよね」という、現実の、共通認識を前提にした、馴れ合いのスタンスとは、全然別の次元のベクトルを貫き通すことが出来るからで、一番伝えたいことは、一切形にせずにいられるからで、それは現実世界では不可能なことだと思う。一切具象化しないことで、もしかしたら一番具体的に伝わる、かもしれないもの。別に、馴れ合うつもりなんか皆無でも、現実では具体的な何かを話題にしなくては、関係性が成り立たないし、……同じことを書いてる。つまり、一人一人が全宇宙なのだということ。一人一人の全宇宙は、隣同士の全宇宙に、多分届かないだろう、ということ。一人が悲しいときは全宇宙が悲しいのであって、なのにそれに「悲しみ」という名を付けた途端に、まるで互換可能なありふれた、日常的な感情にすり替わってしまい、まるで全宇宙、というひとつの同じ空間の中に、一人一人が共通して含まれていて、悲しみを分かち合えるように錯覚してしまうこと、は嘘なのだけど、それを嘘と感じられない程度に、他人と表面的に同化してしまうと、逆に他人の全宇宙を想像する力を完全に失ってしまうということ。でも、お互い、届かないと分かりつつ、お互いの全存在を想像して尊重し合うことは、多分出来るはず。それはいつか伝わるかもね。いつか。

だらだらと論旨の分からないことを書いていたら、すっかり朝になってしまった。多分、僕は感傷家なのだろう。表面的に合うとか合わないとか、本当はどうだっていいし、とは言っても僕は他人に同化してしまう癖があるし、と言うのは、やっぱり嫌われるのは嫌だし、嫌われたとしたら、それは僕を誤解している、と弁解してしまう。でも、それは本当は誤解じゃ無くて、僕の言動の結果だし、かといって他人に僕を断定されるのは、やっぱりそれは違うと思う。何も言わなければ他人に興味が無いと言われ、何かを言えば好かれたり嫌われたりするのなら、僕ははっきり言って誰も彼もが好きなのだ、といつも言っていた方がいいのかもしれない。特定の誰かを好きになったり、特定の誰かに落胆したりする。それは何故なのだろう? 誰かを理由抜きで「好き」になった後で、誰かの全てが「好き」の理由になる。僕は僕の「好き」を誰かの上に具象化したいだけなのだろうか? いや、違う。僕は全てが好きで、全てを好きになりたいのだ。あなたが全てを好きで、全てを好きになりたいように。でも現実は選択の連続だから、全てを好きとは言っていられない。選択されなかったものは嫌いなのだろうか? 行動した途端に比較したことになる。全てを好きとは言ってられない。僕は薬を飲む。あなたは薬が嫌いかもしれない。僕には読む本と読まない本があって、それはあなたが読む本と読まない本とは違う。どんな詩にだって、価値を問うことが出来ない、個性が含まれている。何でもかんでも好きだと言っていたら、まるで優柔不断で、個性が無いと言われる。僕は今は空が好きだし、もしかしたら空だけが好きだ。何でもかんでも空に見えるくらいだ。でもそれはあなたに関心が無いと言うこととは違う。僕は人間を一般に好きだし、でも集団は苦手で、特定の誰かと親密に過ごしたいと思う。特定の誰かとだけセックスをしたいと思い、フリーセックスと言われると嫌な気がして、その誰かが他の人とセックスをしていたら嫌だなあ、と思う。博愛主義者ならそんなことは言わないだろう。だから僕は全部が好きな訳じゃ無くて、人間の言動や主張の多くを、多分嫌いなんだろう。でも、言動や主張とは別に、人は人で好きなんだ、ということは、例えば父に「分かった、分かった。父さんのことが嫌いなんだろう」と言われると「いや、違う、好きなんだ!」と叫んでしまうし、でもその瞬間にすんなりと「そうか」と言ってくれる父のことは、その瞬間に僕の全ての宇宙が開けて、一瞬、全てが繋がっているような、本当に全てが開けるような気がするし、ふと口を突いて出る言葉が、何かと何かを瞬間的に繋いでしまうような気がするし、何でも無いような誰かの言葉に虚を突かれたようなとき、今まで人間一般だった(?)その人に、急に「好き」のフォーカスが合ってしまうような時もある。会話が歌になる瞬間。「いつの日か、会話の中に歌が流れたら、全てのシチュエーションが、上手く行くのに」と(歌の最後に付け足すように)歌ったニック・ドレイクが特別に好きで、でも、だから、そういう泣きたくなるとき、誰かの歌に(言葉に)誰かを超えた全てを感じて、何だかそれだけでいいような気がする。自分とは関係ない、事実や知識を並べられても、僕にはその人に対するとっかかりが無く困惑してしまう。好きが消えてしまうようで、僕はその人から離れたくなる。大袈裟な言葉も嫌いだ。と、思う。嫌いというか、何か違う、と思い、僕はまたそれに対して、自分とは関係の無いような何かを並べ立てる人に対して、何ごとか言い、そしてその会話の最後には、まるで僕がその人に敵意を持っているみたいになってしまうのだけど、「いや、君に対して敵意は無いんだ」という言葉が、まるで空々しくなるときもある。そういうとき、僕の言葉は自己主張なのだろうか? ……段々言葉が白々しくなってきた。僕は音楽が好きで、言葉が好きだよ。結局そのことだけが、14歳の時から引き摺ってきた、僕にとっての真実の、ほとんど全てなのかもしれない。話を変える。僕には神経質なところもあるのだ。

絵や写真や、視覚表現、特に具象的ものは、ずっと嫌いだと思っていた。「これがこうなんですよ」と、描かれているもの、映っているものだけを、無邪気に「これは真実です」と見せられているような気がして。眼が見えなくてもいいと、よく思ったけれど、でも本は読みたいから、ある方がいいのだろうか、と思ったり、それはあまりいい考えではないのかも、と思ったり。眼なんか失った方が純粋だと思ったり。だって、眼は、具体的なものを見てしまうから。そして具体的なものは、感覚的に影響力が大きくて、無邪気にも、それは現物だ、みんなに見えているものだとか、美しいとか醜いとか、いろいろ考えてしまうし。人が映っていて、それが真実らしく見えることを多分意図しているだろう、と思って見てしまう映画が特に苦手で、写真も苦手だった。アニメや人形劇の方がずっとリアルだと思っていた。人間を直接描かないことで、仮定として人間を描くこと。小説のリアリズムが嫌いだ。まるで記号的に描かれている方が好きだ。イラストはずっと好きだったし、今も大好きだ。ずっと大好きで、今はくまおり純さんとイリヤ・クブシノブさんと、少し前までのタカノ綾さんがとても好きだ。と言っても、一度好きになった画家の方の作品は、ずっと追いかけて、見ていたいと思う。ゴッホの絵にはとても若い頃、自分の部屋が描かれている小さな作品を見て驚いたし、それはまるでゴッホだけがあまりに強く現れているようだったし、ポロックの絵には本当に強い衝撃を受けたけれど、今は衝撃よりも親しみを感じて、僕としたことが絵を描きたいとたまに思うようにさえなった。でも多分、具象画は描かないだろう。写真も、少し、ただ「これが真実だ!」という主張だけでもないのだと感じるようになった。でも、それなら、写真じゃなく、何故文章を書いたり、音楽を作らないのだろうか?、というちょっと無理な要求をも、考えてしまう。でも、こういうことはあまり書かない方がいいな。結局、僕は視覚表現に対して単に疎いし、何も分かってないことを露呈するだけだろうから。

長く書いていたら少し疲れた。頭を落ち着けようと睡眠薬を噛んで飲んだからかもしれない。これは詩では無いので、書きたいことは、きちんと論旨良く説明しなければならないと思うのだけど、単に文章力不足で、書きたいことが抜けてしまった気がする。もう朝だ、と書いてから、もう二時間も経ってしまった。書きたいことは、ある気がするんだけど。何か食べて、少し眠ろうかな。