自己催眠から抜けること

8月2日(日)、
僕はいつも嘘を吐いている気がする。笑うのが随分上手くなった。両親の話にタイミング良く相槌を打つだけじゃ無く、さも楽しい声調で場の雰囲気を整えることさえ出来るようになってきた気がする。僕は嘘を吐いている。と、こう書きながら、実は合わせられていない気がするのですね。僕は不安だし、何か暗い話題になるんじゃないか、話が僕のことに向くんじゃないか、とびくびくしているし、だからただ、親も気を遣ってくれているだけなんじゃないかと思う。

この間、友人からメールが来て、「B(僕のこと)は昔から自己肯定感が薄いし、(…)『俺はこれが好きだ!』というのも弱いんだから、他人に合わせ続けると、元の自分が分からなくなって、そのままだと人に飲まれてしまうぞ。他人に合わせるのは自己に対する洗脳みたいなものだ」ということが書かれていて、うーむ「いや、昔はそうじゃなかったんだ」という弱々しい返信をした。実際、僕はかなり長い間、生活の空気に合わせることにばかり執心していて、出来るだけ軋轢を起こさないように、とそればかり考えて生きてきた。父とも、母とも、仲良くいたい。笑い合った後では空虚感で、しばらくぼーっとしている。友人の前でだけ、ある意味正直な、何にも無い自分自身を晒してきた気がする。彼には嘘笑いなんて通じないからだ。彼とは、僕の人生の半分以上の期間、友人同士でいる。僕は彼といると嬉しい。それは掛け値無しに本当だ。何故彼が僕なんかを見捨てずにいてくれるのか分からないけれど、僕のほんの微細な実直さ(もあると思う)を、察知してくれているからじゃないかな、と思ってもいて、僕には何もかも現実には思えなかったけれど、ともかく彼の存在だけは、時に唯一のリアルだった。

リアルな人は、彼を含めて今は何人かいて(その殆どはもうとっくに死んだ、僕が一方的に好きでいる人たちだけれどともかく)、僕は人間の存在なんて全く信じていないのかもしれなくて、ただ、その何人かがいるから、人間の世界に留まっていたい、という気持ちもあるのであって、誰もいないならば、僕は僕自身が(生活の中で)何者か、なんて問いには、全く悩まずに、勝手にひとりで宇宙と一体化していただろうと思う。それも悪くないのだけど、それは後回しでいい。

現実? 分からない。分かったようなことの集積が現実で、誰も本当は現実なんて知らないと思う。浮浪者になることや、社会的落伍者(というのも抽象的だけど)になることを、何故僕が恐れなくてはならないのだろう? 僕は人に迷惑をかけたくない。それは他愛の感情からでは無く、加害者になった途端に、人間の論理に自分が含まれるのが嫌だからだ。僕は、格好付けから言うのでは無く、本当に、言葉にもギターにも、宇宙の底に通じる路があると思う。だから、たとえ何の身寄りも無く路傍に放り出されたって、ペンとノートがあって、贅沢を言えばギターがあれば、あとは食べることさえ出来れば、何の羞恥心も無く、ギターを弾いて、歌って、というかそのときこそ衒いもなく純粋に歌えるかもね、と思ってる。現実とはある種の信念だ。リアルは他人の感情だけ。もちろん、他人の感情があることだって、ただの信念だけど、多分、その信念に、人は愛という名前を付けたのだと思うし、人の感情を自分が感じると思える領域が、僕の中にあることは、経験的に確かで、僕は物の存在を確信したことは無いけれど、人の心の存在は、これ以上信じることが出来ないくらい、感じたことがあって(錯覚でもいい)……言葉にもそれを感じたことがある。音楽は、気持ちいいだけの音楽は、本当は要らない。言葉については、言葉を、ある生命として、感じられたことがあったと思うけれど、音楽の場合は、具体的な何人かのミュージシャンに、出会ったと感じたから、だから音楽の力は信じてる。力、と言っていいのか分からないけれど。いや、言葉にしたって、日本語は、中原中也がいなかったら、まず間違いなく捨てていたし、それから言葉の生命を感じたのは、谷川俊太郎の『詩集』という詩集を熟読してからだ。谷川俊太郎は、残る人だと思う。ただの流行詩人では無い。漠然と、概念としての言葉や音楽や人の存在を信じることなんて、人間には出来ない、不可能なんじゃ無いかと思う。音楽は、ニック・ドレイクがいるから、信じてる。あくまで具体例を通して信仰のようなものが生まれるのであって、言葉も、音楽も、ギターも、人の心も、具体的に信じるいくつかの実例があって、初めて好きになれる。のは、当たり前として、僕は確かな形しか信じない。物はなかなか信じられないけれど、あまりに付き合い続けた物に対しては、感情的な重みを感じて、僕から切り離せなくなる。そのとき物は物を超える。別の次元のあるものになる。形があって、まるでフィジカルに感じられる、重みのある概念になる。普通の意味のフィジカルさ、自分の身体は、あまりよく分からない。でも、ニック・ドレイクの存在は、僕の存在より確かだ。

僕は、どうなってもいいよ。本当に。捨てられてもいい。僕が勝手に信じる、存在する、いくつかのものがあるから。人がいるから。石橋だって最初は疑いと共に叩く。でも三年も叩き続ければ、それは否応なく存在し、存在する物に対しては、好きにならざるを得ない。何故なら、実在が僕の心を孤独にするからだ。孤独とは普遍。ただ独り存在することを通して、世界はその懐かしいような、慈愛の光を見せる。それは多分普遍。それが多分、詩。なのに僕は生活にあぶれた僕のやましさを形にするだけで、生活から実在へと移り住むことが出来ずにいる。そうしてそういう自分を、あながち嫌いじゃ無くて、少し遠くから、ニック・ドレイクを聴きながら、卑屈な自分を愛しく思ったりする。……

死ねばいいんだ、ってときどき思う。いや、いつも思っているかもしれない。永遠も、消失も、無も信じること無く。ただ愛するものだけを信じて。

話は変わるけれど、僕はくまおり純さんの絵が好きだ。……ということを書こうとして、急に書きたいことがあって、詩を書いた(『宇宙はいつも最後の笑み』)。でも、うまく言葉にならなかった。ニック・ドレイクや櫻井まゆさんが今もいる場所を感じて、泣きそうになって、感傷的なので、そういうときは、本当に、冷静に自分の言葉を客観視することが出来なくなる。自分ではよく分かっているつもりで、多分、読まれる方にとっては訳の分からないものになったと思う。すみません。でも、僕は、僕の創作の基本的なモチーフを思い出したと思う。

今日は大体ごろごろと寝てた。何か書けると思ったのだけど、数日間あまり眠ってない疲れが溜まっていたと思う。

夜はそうめんを食べた。

 

8月3日(月)、
午前3時頃、くまおり純さんの画集を見ていて、とても懐かしい気分になったので詩を書く(『私はただの詩のように』)。

朝までずっと起きていて、塩サバでご飯を食べる。アイスを食べる。

天気が、山が、緑が、僕のように注意力散漫だ。近頃父がせっせと植えている庭の花木も注意力散漫だ。僕のように。

昼は、ふりかけでご飯を食べる。

夜、冷凍のパスタを食べる。

今日からメインで使う(パソコンの)キーボードを代えようと思う。代えるか代えないかで、僕の脳内会議は随分揉めた。同じ東プレのキーボードだけど、打鍵感がすごく軽いのに代えた。

ここ数日、自分の心の中に、孤独な自分がいるのを感じて、何となく両親と話していても、うまく合わせられない。無理に合わせる必要は全く無いけれど、ひとりきりの気分と、誰かといて楽しい気分の両方があればいいのに、と思う。いや、思ってないのかな。僕は自己愛的で、自分の孤独感が好きかもしれない。

無くしていたものを取り戻しかけている。自分の感情。自分が自分であること。当たり前のことだけれど、当たり前の感情は、当たり前過ぎて、それを失ったとき、それが一体どういうものだったのか、うまく思い出せない。でも、何か大切なものを失ったことは分かる。「好き」という感情が一番大事だ、ということを、取り敢えず字面としては覚えているからだ。自分が確かにここにいる、という感じ、それは脳の何処かにあるのだろうか? 脳の中には無いだろうと思うけれど、脳の障害によってそれが失われることはあるだろう。僕の脳は回復している。多分もっともっと回復するだろう。多分、おかしいくらい回復するだろう。