「自分」について

これが自分だ、と思える自分には、僕はなかなか出会えない。ただ落ち着いている、というだけじゃなくて、内面的な意識が目覚めていて、今まで生きてきて、いずれ死ぬ自分を、自分で自覚している感じ、、、というのかな、うーん、うまく説明できない。誰にも見せない、自分だけの秘密の日記を書いている自分、というのだろうか。誰とも原理的に分かち合うことの出来ない、秘やかな、自分だけの自分が、確かにここにいるんだなあ、という感じ。誰にも伝えることが出来なくて、でもそれだととても寂しいので、何か内面的な声を形に(例えば詩に)して、伝えたいと願うような気持ち。子供のときには、そういう気持ちになることがよくあった。例えば、誰もいない昼間、神社の縁側の下にしゃがみ込んで、ひとり日の当たるクモの巣をじっと眺めていたりとか。母と散歩しながら、花が揺れているのにばかり気を取られて、先を行く母の背中を見ながらふと、母もいつかいなくなるんだろうか、と思って心細くなったりとか。そういう、誰にもうまくは伝えられないけれど、自分の中にだけは確かにあって、自分の心のアルバムに焼き付いて消えないような気持ち。そして、そのアルバムをたったひとり、また開いて読み返すときのような気持ち。そういう気持ちに、強く自分の存在を感じる。他の誰でもない、他の誰かに比べて優れている訳でも、価値がある訳でもない、けれど自分だけは確かに知っていて、とても大切な、自分だけの気持ち。それが、多分それだけが、自分なんじゃないか、とときどき思う。だから、「これが自分だ」というのは、真の自分を見付けた、というような、大したことではないんだ。そして、今もまた、自分は自分の思い出の一ページの中を生きている。誰とも分かち合えない、自分だけの感情を、世界を生きている。その気持ちは、全然大したものではないのだけど、そして寂しいのだけど、その寂しさを忘れると、僕は自分を見失う。そして、自分の気持ちとは関係ないことを、あれこれ求めたり、喋ったりし始めて、そして自分でも何か忘れている、と思いながら、その時々の苦しみや表面的な楽しさだけにかまけて生きて、自分には才能があるとかないとか、くだらないことに悩んだりする。仮に、詩を書くなら、何か気の利いたことや、良さそうな思いつきを書くのではなく、当たり前だけど、自分の気持ちを書くべきだろう。自分を見失っているとき、僕には詩が書けない。小説も同じことだと思う。作者の言葉に、まるで忘れていた自分自身を見付けてもらったような感じがする瞬間が、とても好きだ。いい小説を読んでいると「何でこの作者は私の気持ちをこんなに知っているのだろう」と思う瞬間が多いし、それは作者が多くの人の気持ちを知っているのではなく、多分、作者の、自分自身の気持ちだけを、よく知っているのだと思う。当然だけど、人の気持ちは分からない。でも、人が皆孤独であり、一人一人が寂しい、内面的な存在であることは、多分、普遍的だと思う。つまり、内面的で個人的であればあるほど、表現は逆に、普遍的なものになるのではないだろうか?


*(以下は消そうと思ったけれど、消す勇気がなかった)
歌だって……音楽だって、きっと同じ。それはどこまでもどこまでも、個人的な表現なのだと思う。だから、何も、自分を離れて、知識(のために)や理論で聴く必要はなくて、ただひとりの人間として、ひとりの人間の声を聴けばいいのだと思う。もちろん、これは、僕の狭い見方(聴き方)だ。でも、僕が、音楽を作り、そして演奏するとすれば、僕には、僕自身の内面を表現することしか出来ないと思う。自分の、本来届かないはずの声を込めることしか。

こういう考えは、子供じみているかもしれない。多分、そうだと思う。ゲーテの『ファウスト』に個人的に感情移入することは僕には出来なかったし、もちろん聖書にも、シェイクスピアにも、個人的感情の表現というものは読み取れない。グレゴリオ聖歌やインドの音楽や雅楽を、僕はよく聴くけれど、そこにも誰か個人の声、を見出している訳じゃなくて、それはただただ美しい。まるでピラミッド(見たことは無いけれど)や、朝の海に幾重にも差す光芒を美しいと思うように。けれど、それを感じているのは僕ひとりだ。僕は寂しい存在だ。誰もがそうであるように。ある種の畏敬の念に打たれるということ。中原中也が書いていて、気に入っている言葉なんだけど、西洋の小説を翻訳するといっても、年中ゲーテシェイクスピアでは足りない、西洋人の子供が毎日それを食べて育つ、母親のオムレツのような小説が輸入されるのでなくては、西洋の文学は分からない、ということを書いていて、僕は今は、その言葉がよく分かると思う。

自然は美しいのだろうか。美しいと時たま感じる僕の心があるだけなのだろうか。人間の心は美しいだろうか。僕は寂しくて、僕は人の心に出会いたい。それが錯覚であるとしても。お互いが錯覚が錯覚でしかないことを分かり合っているような寂しい優しさが欲しい。それでも触れ合いたくなるような。僕はただ、僕として生きていきたい。そして、僕は僕のままで、消えてしまいたい。……消えた先々で出会う人たちのこと……。自己の愛着心、そして消失。愛すべき世界が、自己の消失と共に初めて存在し始めるということ……。