メモ2

僕はただそのときを待っている。僕の、宇宙が始まって以来の話。

空っぽの音。

アンドラーシュ・シフの弾くピアノの音と、ヘッドホン越しの、キーを叩く音だけがする。生活の中では、あいつはどうしようもない奴だと言われたり、蔑まれたり、馬鹿にされている方がいい。生活の中でどんなに誉められても、見返りなんて全然無いからだ。本当の安息は、それをどんなに生活の中に求めようとしても得られない。どんな瞬間にも謂われのない弾劾を受ける可能性は常にあるからだ。弾劾は必ず謂われのないもので、どんなに人に害の与えない穏やかな人間であろうとも、生きている限り他人の邪魔にならない訳にはいかないから、ただ駅の階段で歩くのが遅いという理由だけで殺されてしまうかもしれない。罪の無い小市民なんて存在しない。自分ひとり生きていくことだって、十分大変なことなのだから、本当は生きているだけで誉められて然るべきだと思う。憂鬱にならない人間はいない。いつも憂鬱な人間は、昔の罪人みたいにいつも大きな鉄球を引き摺って生きているようなもので、普段の生活が不断の自意識との戦いであるのに、そんな孤独な戦いを誰ひとり勇敢だとは言ってくれない。うまく笑えないことは人を傷付けるかもしれない。いつも明るい人は、その明るさで人を傷付ける。

サイレースを噛んでいる。冷たくなって油分の固まりかけたコーヒーが酸っぱくて気持ち悪いので、飲むのをやめた。ガラスのサーバーの中で冷えたコーヒーは捨てずに、手鍋に入れ替えて、コンロで湧かしなおすと割と飲める。夜中の間に、大体マグカップに三杯コーヒーを飲む。僕は生活リズムが適当で、二、三日起きていて一日眠るというパターンが続くことも多いし、数年前までは、起きているのが楽しすぎて一週間ほど殆ど眠らないことも多かったのだけど、躁鬱の薬を飲み始めてから、楽しすぎておかしいという状態があまり無くなった。逆に眠り過ぎてしまうことが多くなった気がして、それは少し寂しい気もする。朝早く起きたときは、濃いコーヒーと煙草で目を覚ます、と頭の中の中心、脳幹、多分僕にとっての真空管のような場所、温まるのに少し時間が掛かるけど、一度温まると琥珀色の熱を発し続けてくれる、心地良いノイズ混じりの器官、に脳内の電気パルスが供給される。そこは脊椎と繋がっていて、肩胛骨と肩胛骨の間で生産される、文学的な感じのする冷たいエンドルフィンが脳幹の真空管に吸い上げられて、琥珀色の熱と共に脳内全体に拡がっていく。とろりとする。ソラナックスを噛む。苦い。朝、シャワーを浴びるという習慣は、もう長いこと戻ってきていない。ひげを剃るのも面倒くさい。薬を噛んで、音楽を聴いている。現在時刻は朝の10時。ヘッドホンを外して、今はスピーカーで音楽を聴いている。どちらかというと、僕は、もともとはヘッドホンよりもスピーカーで聴く方が好きだ。YAMAHAのスピーカーから流れる甘みの強い音は、僕の今いる空間を、丸ごと、世界の他の部分から隔離してくれるような気がする。長い間、周りの空間からの隔てられている、という素晴らしい感覚からも、追放されたままでいた。本当は、低音の強いBOSEのスピーカーが欲しいと思っている。

僕にとっての幸せは部屋の中で大体完結していて、音楽を聴きながら書いているとき、僕は至上の幸福を感じられる。そんな幸せを、長いこと味わうことが出来ずにいた。今は、ただデスクの前に座り、たったひとりで書いている時間を、何ものにも代え難い、美しい時間だと感じる。他にも、世界で一番楽しいことはいくつかある。本を読んでいることが何よりの幸福だし、ギターを弾いていると、自分が何故か19世紀のイギリスにいるような感じがする。遠い物語と交信しているような。英語とフランス語を勉強することが、今はとても気持ちいい時間となっている。勉強なんていう単語はふさわしくない。横つづりのアルファベットの仮名を舐めるように読んでいると、熟成されたお酒よりも甘い香りを感じる。言葉なんて言うただの文字情報の羅列でしかないものが、どうしてこんなに、麻薬のような快感を産み出すのか。歌うことも、また好きになってきた。英語で歌う。高い声で、低い声で。最近はあまり高い声では歌わない。中音域が一番美しいと思う。考えるのがまた、何よりも楽しくなってきた。

僕は人間が作った道具が好きだ。特に、人間が本来住むことの出来ない場所を、快適な居住空間に変えるという、原始的な道具の存在意義の集大成である、アウトドア用品のカタログは、見ていて飽きない。テントにシュラフにガソリンで光るランタン。いつかキャンプと川釣り(フライ・フィッシング)に行くことが、僕の夢だ。それから調理道具の美しさは、完結した世界の中で進化を極めていて、料理をしない僕でも、一から全て揃えたいと思う。

何よりも、何よりも遠く。人類の叡智が届かない場所に行きたい。全ての言葉を超えた場所。全ての音楽を超えた場所。音楽と共に、言葉と共に、静寂と共に、そこに行きたい。何もかもを超えた場所、何もかも以前の場所に。ただ、楽しいとか、気持ちいいとか、そんなのとは関係無い場所。趣味の延長線上ではない場所。ひとりひとりの底に、その場所はある。

全ての価値観を超えた場所。

またサイレースを噛む。煙草を吸う。スピーカーの向こう側、遠い場所ではアンドラーシュ・シフがバッハのパルティータを弾き続けている。ディスプレイ上のキャレットの点滅。ほぼ十年間、外出という外出をしていなくて、体力が落ち切っているのはいいのだけど、ひょっとしたら転んだバイクを引き起こせないんじゃないか、ということが唯一の心配で、僕は引き籠もりなのにバイクにはずっと少し憧れていて、それはただスズキのSW-1に乗りたいからだ。日々落胆と意識の拘束の中で生きている内に、僕の中で、外の世界はすっかり淀んでしまっていて、自分専用のカプセルの建設と、カプセルの中で萎えていく神経を薬で奮い立たせる以外、為すすべも知らずにいた。その間にバイクの夢も錆び付いてしまっていて、夢の墓場でスクラップになっていた。この頃、夢のスクラップを少しずつ掘り起こし、整備している。その中から、白い、クリーム色の愛らしいSW-1も掘り出されてきた。ジャズマスターに雰囲気が似ている。白のジャズマスターはとても可愛い。テレキャスターも、段々可愛らしいと思うようになってきた。テレキャスターにはラブライブ津島善子(通称ヨハネ)のステッカーが貼られている。ラブライブのキャラクターは基本的にそんなに好きじゃなくて、どちらかというとアイマス(特に楓)の方が好きなのだけど、ヨハネは別格だ。いずれジャズマスターを買ったなら、やっぱりヨハネのステッカーを貼るつもり。タカミネのクラシックギターを先に買うかもしれない。

僕は、今、一番、言語力を取り戻したい。まずは、日本語の力を、過去最高の水準まで引き上げたいと思う。僕は生活に、影の一部でも釘付けにされたままでは、本当は一行も書くことは出来ない。だから本当は、今の僕は一行も書けないのだし、今書いているものは、僕にとって、ただの記憶の影の寄せ集めに過ぎない。もともと、僕が書くものはライティングと言うよりはタイピングによる即興演奏に近い。ジャズの即興演奏はもちろんだけれど、クラシックやロックにも、主題からの、自由で大胆な展開があって、僕は特にピアノとギターの、見てすぐにそれと分かる、限定された音数の中での無限の自由さにとても惹かれる。ピアノは、それがどんなに無限の可能性を秘めていても、そこにあるのはいつだって88個の鍵だけだし、ギターにあるのは6本の弦と、22個前後のフレットだけだ。

6弦22フレットのギターでは、138箇所も音が出せる場所があるのだけど、違う場所を押さえても音程が全く同じ、ということがかなり多くあるので、実質的には46個の音しか出せない。けれど、ギターの素晴らしい利点の一つは、ピアノでは絶対に出せない、半音の半音とか、そのまた半音とかを、無段階にいくらでも出せるところで、それはギターが、楽器として揺るぎない地位に在り続ける理由のひとつだと思う。また、弦の押さえ方や、ピッキングの仕方によって、音色がかなり変わる。ピアノは、一音単位で考えるなら、誰が叩いても全く同じ音が出るけれど、ギターは一音一音に個性が出る。僕は、ジョン・レノンのただ一音のコードの音に惹かれて、ギターに憧れた。いくらシーケンサーが進化しても、指先の微妙な、殆ど震えほどの小さな動きの違いによる、音程の揺れや音色の変化まではシミュレートできない。それはどんな楽器にも言えることだけれど。コンピューターが進化することで、生の楽器が無くなる、ということは、少なくとも僕が生きている内にはないと思う。

ロックやジャズやクラシックの自由な展開。ギターやピアノやベースやドラムやサックスやトランペットや、もちろんヴォーカルや、いろんな楽器の演奏に、いつも憧れてる。チェスの中盤戦の詩的な流れや、アニメの展開や、詩や小説そのものの音楽性にも、とても惹かれる。音楽のように書くこと。キーボードをただ演奏するように叩くこと。きっと、英語やフランス語で書く方がさらに音楽的に書けるだろうと思う。書きながら、さらに音楽に近付きたい。

手書きの味わいも、とても大切だと思っていて、アウロラのブルーの万年筆と、ダイアミンの血の色のインクを、僕はとても愛している。ひと文字ひと文字刻みつけるように書いたり、続け文字で流れるように書いていると、静けさを感じる。キーボードで書いたものと、ペンで書いたものとでは、いつも文体がかなり違う。どちらも音楽的という点では同じだけれど、手書きだととてもテンポが緩やかになる。その緩やかさは、キーボードでは再現できない。

キーボードは、東プレの、タイプライターに近い、と言われている、段差の急なものを使っていて、打鍵感はピアノのタッチにも似ている。

全てはやわらかく古びていく。キーボードの感触が気持ちいい。今は、スピーカーからはジミ・ヘンドリックスのギターが流れている。ストラトキャスターの音は素晴らしい。テレキャスタージャズマスターの方がさらに素晴らしいと、僕は思っているのだけど。

人生はとても短い。全てが消失していくその流れに身を任せることだけが、安息への唯一の道だと、僕は信じている。

音楽は、本当に好きなアルバムだけを何百回でも聴くのがいい、と思う。あれこれ聴かなくていいと最近思う。人生は長くない。好きなものを、とことん好きで生きて、死んだ方がいい。教養なんて、必要以上に積もうとせずに。

長年、メンデルスゾーンに対して、偏見を持っていた。何となく大した作曲家ではないのではないかと思っていた。ピアノ・トリオの第一番は大好きだったけれど。他には『結婚行進曲』が有名なくらいで。『結婚行進曲』のメロディと単調さは僕はあまり好きじゃないし。どうも生ぬるい曲を作るイメージしかなかったのだけど、最近『無言歌集』(ピアノの独奏曲)を聴いていて、その美しさにびっくりした。バッハのように完成された構造美は感じないし、ベートーヴェンのように、一音一音が屹立した感じもないのだけど、メロディがとにかく優しいし、それに小説のようにドラマティックだ。短調の曲が短調に聞こえない。『無言歌集』は有名らしいのに、僕が知っているピアニストの録音がなくて、バレンボイムの演奏を聴いているのだけど、音の優しい波に胸が満たされて、心が融けていくみたいだ。バレンボイムにもかなり偏見を持っていた。何となく偏狭で、大らかさの足りないピアニストの気がしていたんだけど、全然そんなことはなかった。どうもバレンボイムの弾く『無言歌集』はそれほど評価が高くないみたいなのだけど、おそらく録音かミキシングの出来が良くなくて、音が平坦だからだと思う。けれど、淡々とした描写の中に、鮮明な風景と、色彩と、強い叙事性があると思う。僕はまだクラシックの良さがほとんど分からない。バッハとベートーヴェンに心から感動したいと思っても、まだ少し遠い気がする。ショパンの悲しみは身振りが大きくて、僕の悲しみとは違う気がするし、モーツァルトの明るさにもまだ馴染めない。ドビュッシーの風景は、最初美しいけれど、段々飽きてくる気がする。けれどそれもみんなやっぱり偏見かもしれない。メンデルスゾーンは、とてもいい意味で、部屋の中の音楽、という気がする。

クラシックに、近付きかけてはまた遠ざかっている。ときどき、自分にとても近しい何かを感じる。グールドの『ゴルトベルク変奏曲』には、格別の思い入れがある。ずっと、死ぬときに流そうと思っていた音楽のひとつで、実際に、以前自殺未遂をして死にかけたときにも大音量で流していた。アンドラーシュ・シフはグールドのことを、かなり真っ向から批判していて、特にグールドの姿勢の悪さから来る音色の悪さと、大きな声で歌いながら弾くことで、ピアノが歌うということを忘れている、ということを書いているけれど、僕はどうしてもグールドの演奏に、個人的な親しみを感じてしまう。でも今年は、グールドよりシフの方がよく聴いていて、シフは言葉でよりも、演奏でずっと多くのことを語っているという気がする。

いい曲なら、多分、一生掛かっても聴き切れないくらいいっぱいある。でも、僕個人にとって、とても個人的で、特別な音楽は、あまり多くない。

いつかイギリスに行きたい。何年間か、英語だけを使って暮らしてみたい。日本語にも愛着があるけれど、日本語は、僕が選んだ言語じゃない。嫌いだけど、嫌々使っている内に、好きにならざるを得なかった、僕にとっては愛憎の入り交じる言語。