メモ(優しい光)


僕の心の底には小さな水の流れがあって、そこを通って別の空間に出ることが出来る。この世界の別の側面。生活世界とは別の世界。時計の針が蹴躓くように揺れている。いつ見ても僕のヤマハの時計は、世界の基準より三分間未来を指している。僕には、多分、必要なものが幾つかある。多分、というのは、仮に僕が宇宙の果てのスペースコロニーにひとりで住んでいたならば、僕は多分食料と寝床以外、何も必要としなくなるだろうからだ。何故なら平常時間がそこでは異次元だから。その内ブラックホールに紛れて、僕の身体は天国に運ばれるだろう。僕は地上に住んでいる。ここでは、本当に、いろんなものが必要になる。僕はやっぱり、音楽と言葉がなければ死んでしまう生物だ。地上では。音楽と言葉を受け付けなかった数年間、本当に僕は死んでいた。身体だけが動いていて、心は刺々しくも拡散していた。汚れた壁や台所のにおいや両親の諍いや孤独やじめじめした涙や自傷の痕や、いろんなものに心は拡散していて、そして僕の身体は生暖かい臓物のような見えない煙に包まれていた。音楽も言葉も、美しいものはみんな、心に届く前に空気に被れて腐ってしまっていて、胃に穴が開くほど酸っぱいにおいを発していた。何を見ても、聴いても、吐き気がした。何よりも愛していた時間から阻害されることほど辛く、僕を絶望させることって、他に何があるだろうか? 笑って死ねるなら天国を信じていられる。僕は僕の底の底を通って、どこか別の場所に産まれ変わることが出来るだろう。笑えないとき、僕は死からさえ阻害されている。僕は僕なのに僕の心に届かない。絶望的に、好きなものを愛し、愛されていた幸福な時代の、遠のいていく記憶に、ただ手を伸ばし続けるしかない。



アンドラーシュ・シフを聴いている。最近彼のピアノ演奏を、とてもよく聴いている。ピアノは、孤独な楽器だということがよく分かる響きがする。シフがピアノを弾いている表情が好きだったのかもしれない。彼は世界で一番幸福そうにピアノを弾く。そしてそのとき、彼は間違いなく、この世界の向こう側にいる。身体の感覚が限りなく稀薄になり、身体は、ただ神の息吹の通り路となる、というような、感じがする。世界中の人が全てピアノを弾ければいいと思うこともあるけれど、僕が聴くのは、この先の未来で出会うのは、世界の別の側面で出会える五人くらいでいい。グールドは夜明けの黎明の中で、彼自身がピアノであるかのような演奏をする。彼の指先の挙動の全てがピアノの鍵盤に吸い込まれていき、弦は泉のように波紋を立てる。グールドほどピアノを忘れてピアノを弾いている人は、僕はアンドラーシュ・シフしか知らない。好きなピアニストがいる、って素敵なことだ。彼らの指先を通して、僕は遠い時代の旋律の、一粒、一粒を知る。巫女のよう。



ひとりでいたい。ひとりでいてもひとりになれない。ひとりでしか分からないものだらけなんだ。この世界のことは。僕は空想の中で壁を張る。この、生活に満ちた家の、ひとりの部屋で。自分がカプセルの中に入っていると想像する。でもカプセルには罅が入っていて、罅はカチカチと生活の音を立てる。顕微鏡でしか見られないような小さな国に行きたい。例えば。孤独な、ひとり用の天国に行きたい。

心からの安心。僕が欲しいのはそれだけ。それ以上は、何も望まない。安心できる小さな場所で、キーを叩いて、いつまでも書いていたい。いつまでもいつまでも、ギターを弾いていたい。

コーヒーはすっかり冷たくなっている。生活音が胸の中でもする。空気が全然おいしくない。時計が知らせる真新しい時間は、いつも古びていて、街の人々の寝苦しい夜と繋がっている。両手を拡げる。僕はこのスペースの中にいる。



何ひとつ、不安に思うことなんて無いんだ。本当は。分かってる。最近の科学では、神さまがいるかいないか、ということが、とても大きな問題となっているらしい。人間が誰も見ていない場所は、存在しないのも同じ。けれど、どんな場所だって、神さまが見ているなら存在する。全てが、人間が見る夢幻なのか、それとも人間がいてもいなくても、全ては確かに存在しているのか。そういう、中学生が考えるようなことを、科学者はとても大真面目に考えていて、もちろんそんなの、数式で解けるはずもないから、科学者個人の宗教心に、最終的な答えは委ねられていて、そして概ねの見解としては、神さまが存在する、という考えに傾きかけているらしい。もし、全てが観測されている、というのなら、僕の心も観測されているはずで、他人の心だって等しく観測されているはずだから、神さまの視点では、僕の心と他人の心は、必ずどこかで繋がっているはずだ。もし、僕の生き死にに関係なく、他人の心が必ず「有る」のなら。けれど、僕はそういう神さまの存在を信じていない。僕の心と他人の心は断絶し続けていて、その断絶を通してしか、他人とは理解し合えないと思う。僕にとって他人の心は永遠に「無い」ものだし、他人にとって僕の心は「無い」ものだと思う。人と人との共通点があるとすれば、多分みんな自分の世界以外は「無い」ということだけだと思う。それも僕の仮定だ。僕にとって他人の心(世界)は無いものだし、僕以外の人が僕の心を知っていると思ったことは一度も無いから、他人もきっとそうなんじゃないかと思うだけで、「繋がり合ってる」とか「分かり合ってる」「理解し合っている」「心を分かち合っている」なんて言うのは嘘だと思っているのだけど、もしかしたら、本当に人と人とが繋がり合うことって、あるのかも知れない。もし、あるとすれば、それは本来接触することのない、別の心同士が、最大限お互いを尊重し合っている、ということなのではないだろうか? 僕にとっては他人の心は存在しない。他人にとって、おそらく僕の心は存在しない。存在しないものを、あたかも存在し合っているかのように錯覚し合うことによって、良くも悪くもコミュニケーションが成り立っていると思うし、少なくとも、テレパシーがない以上、人と人とが関係し合うには、お互いに想像し合うしかない。「君のことが分からない」と言われても「分かるよ」と言われても、僕は、前者の場合はがっかりするし、後者の場合は少し嬉しいときもあるけれど、でも大体に於いては、戸惑うことの方が多い。多分、心が分かるとか分からないとか、って、日常言語のレベルでは、あまり簡単に口に出来ることではないと思うから。よほど僕が何かを伝えようとして、それが伝わった、と感じれば嬉しい。また、人の心に触れられた、と感じられれば、やはり嬉しい。でも、それは、きっと簡単なことではないと思う。

他人同士が心を分かり合っているかどうか僕には絶対に分からないから、「僕は人に比べて、人の心が分からない人間だ」と言うことは嘘だ。「僕は他の人より、人の心が分からない」と言うことは、他の人のことについて断言出来る時点で、おそろしく他人の心が分かっていることになるから、この言葉は矛盾している。それに、人の心が絶対に分からないことと、人の心について全く考えないことは、全く別のことだ。人の心について全く考えないことも、敢えて良く考えることも、悪く考えることも僕には出来る。他人にとって、僕の心は存在しないものだと僕は思っている。でも、僕の心は僕にとっては絶対に存在するものだから、他人から、僕の心なんて全然存在しないような扱いを受けると、当然僕は反発する。仮に、僕が、他人の心を、まるで存在しないように扱えば、僕は他人から反発を受けるだろう。分かり合うことは永遠に出来ないとしても、想像することは出来る。想像が正しいかどうかはやはり分からないし、相手の心を尊重したつもりが、裏目に出ることもかなり多い。おそらく確実なのは、唯一、僕と同じように、他人の心も孤独なのだろう、ということだけだ。それが正しいか間違っているかは検証不可能だし、それにどっちでもいいことだ。僕はただ、何かしら伝わればいい、と最善を尽くすべきだと思うし、他人の言動から何かしらを掴もうと、やはり最善を尽くすべきだと思う。伝わった、と感じれば嬉しいけれど、それには、僕はベストを尽くして表現するのでなければ。適当な言葉では、伝わらなくて当然だと思う。僕は、何かしら伝わればいいと思う。それは祈りだ。誰しもの表現を、適当に受け流しているならば、僕自身の表現もまた、適当に受け流されても、文句は言えない。いろんな表現がある。生きていること自体が表現であるとももちろん言えるけれど、大抵のことは、分かるも分からないもなく、ただ感じて、受け入れるしかないと思う。敢えて解釈するなら、出来れば最大限、良く解釈して。僕自身が、一挙手一投足に、何かしら意味を込めている訳ではなく、それを良く解釈されれば多少は嬉しくてもやはり戸惑うし、また、いちいちの言動を悪く解釈されたのではたまったものではないからだ。言葉や音楽が存在する理由は、いくつか考えられるし、例えばそれは植物や細菌のように、自然発生して、ただ言葉は言葉のためにだけ存在している、と考えることも出来るけれど、でも、人が表現するということは、人が祈る、ということと同じことでもあるのではないだろうか? 祈りは、届くかも知れない。誰かの祈りを、僕はもしかしたら、受け取ったと感じることが出来るかもしれない。別に祈らなくても生きられるのかもしれない。でも、他人は僕ではない。僕ではないものに何かを届ける、って途方もないことだ。祈らなくてもいいかもしれない。でも、祈らなければ、僕の生には、僕にとっての意味が無い気がする。

僕の心は確かに存在する。誰が何と言おうと、僕の心だけは、確かに存在する。一番分からないのが、きっと永遠に分からないのが、他人の心だ。他人に嫌なことを言われると、僕は嫌な気持ちになる。けれどそれは、僕が他人の言葉に、自分の気持ちを投影しているからだ。「きっと怒っているに違いない」と僕が勝手に思うだけだ。もしかしたら違うかもしれない。実際にテレパシーのように、他人の嫌な気持ちが、僕の心に直接送られてくる訳じゃない。他人の心を想像しなさい、とよく言われているけれど、他人の心が分かる人なんてきっとひとりもいない。僕にも分からないし、誰にも分からない。僕の心は、誰にも分からない。誰にも分からない心は、それだけではとても寂しいので、形にして、誰かに伝えられればいいと思う。でも、一体、何をどう伝えれば、僕は満足なのだろうか? 「分かったよ」と言われれば満足なのだろうか? 多分、直接伝えたい訳じゃない。僕の気持ち、喜びや痛みを、同じように誰かに感じてもらう、ということは不可能だ。それとも、僕は孤独の中で書いて、他人にも孤独を感じて欲しい、と思っているのだろうか? 誰かに、僕の、ではなく、その人本人の、孤独を感じて貰いたい、って。それも多分違う。僕は孤独だ。原理的に。僕は他人の心を想像する。でも、滅多に、もしかしたら絶対に、そこには届かない。……もしかしたら、目の前の世界にさえ、僕は届かないかも知れないのだ。僕は何処かに辿り着きたいだけなのかもしれない。僕は不特定多数の心なんて知らないし、知りたくもない。そんなもの、あると思えないから。僕が望むのはきっと、僕が僕の世界と、そして僕が別の世界と、繋がったと感じることだ。祈りは、僕を空っぽにする。僕は祈りの中で、おそらく一時的に死ぬし、そこでだけ、永遠を感じるし、そこでだけ、不可能が可能になる気がする。そこは何故か、完璧な満足に満ちている。僕という存在の死は、全く苦しくなくて、光に満ちている。どうしてそうなのか分からない。安らぎや、恩恵、という言葉を、僕は、本当に孤独な祈りの中にいるときだけ、ちゃんと使えるような気がする。



幸せ、という気持ち。それには多分二種類ある。誰かといることで感じる幸せと、ひとりきりで感じる幸せ。ピアニストは孤独だけれど、ピアノの前では最高に幸せな気分でいて、きっともう他には何も要らない状態になれるのだろう、と思う。みんな、ピアノが弾けたらいいのに。僕は、歌うことで、幸せという状態にかなり近付くことが出来た。今はもう忘れてしまった感覚だけど、あるときは本当の幸せにいたかもしれない。今は歌うとき、少し緊張している。失敗しないように、下手だと思われないように、と思いながら歌っていると、声が硬くなって、余計に歌えなくなるし、歌ってて楽しくない。僕は、歌いたかった。歌うのが好きだったとき、僕ははっきり言って、歌うのが下手だったと思う。でも、ひとり、歌の世界に入るのに、上手いとか下手とかは関係なかったし、声量が本当に無くて、人に聞かせることは、本当に出来なかったけれど、音程はぴったり合っていた。音楽と同化している感覚があった。僕の歌は、僕専用だった。歌の世界に入ること、と同時に、僕は自己表現の可能性を信じていて、素朴に、僕の感情、感覚、感傷を、他人に伝えたいと思っていて、僕の心にある風景を、他人にも見てもらいたい、と思っていた。だから、声の代わりになる楽器を弾きたくて、それには一番、チェロがいいと思っていた。今でもチェロにはとても憧れる。僕の声は、全然良くなかったから。歌える楽器が欲しくて。今はチェロと同じくらいテナーサックスにも憧れる。でも、ギターでもいいな、とも思うんだ。心を込められるなら、そして孤独の底に行けるなら、どんな楽器でも同じ。多分、言葉でも。書くこともまた、演奏だと思う。孤独の、深い場所では、表現手段の違いなんて、意味を為さなくなる。そういうことにやっと気付いたのは、僕がたしか二十歳か、二十一歳の頃で、その頃、僕にとって、書くことはこれ以上の何ものも要らないくらい楽しいことだった。その後、僕の心は壊れてしまって、僕にあるのは壊れた心だけだったのだけど、そして、壊れた心がいかに壊れているか、ということを表現しようとしていたけれど、それが全て失敗だった(と僕は思っている)のは、僕が僕自身に拘りすぎていたからだと思う。僕以外の何かに届きたい、という祈りとは逆の心。この頃、僕は静かな孤独を感じられるようになってきた。回復してきた。誰かといて感じる幸せは、脆くて、崩れやすい不安を孕んでいて、けれどもそれは、この世界に対しての価値観を、がらりと変えてくれる。他人にぴたりと自分の心を当てられることなんて望んでなくて、ただ僕が信じる人に、信じて欲しいと思う。信じられていると感じると、この世界に対する不信感が奇麗に消え去って、例えば、簡単に言えば、ご飯が美味しく食べられる。生きていて、いいなと思う。その満足感が無ければ、僕の生に関する価値観は、ほとんどゼロにまで下降して、僕はただ、死ばかり望むようになる。ひとりでいて感じる幸せも絶対に必要で、それは生活の中の満足と違って、不満という不満がひとかけらもない完全な満足。けれど、生活の中で満足していなければ、ひとりでいてもなかなか満足出来ない。というか、続かない。絶対にそうだ、とは断言出来ないけれど。孤立の中での孤独は、自殺の可能性を多く含んでいる。この世界に安心し切ることが出来なければ、ひとりの世界に入れても、そこは暗い。死を前提にして、死が僕にとって明るいものであるならば別だけど。本気で死ぬつもりで遺書を書けば、何らかの表現が出来るかもしれない。そしておそらく僕はその表現に満足することが出来るだろう。死に行くものとして、何かを遺したいと思うこと。その祈りは正当だから。



僕は今、音楽を聴いていると、いつでも世界の誰からも忘れられたような心地良い孤独の中に入ることが出来る。そんな感じを、この頃やっと、十年ぶりくらいに感じられるようになった。ヘッドホンやスピーカーがあればそれだけで音楽が正しく再生される訳じゃない。音楽を聴くには、どうしても(正常な?)脳という高品質な再生装置が必要らしい。僕の頭の中の再生装置は、真空管マホガニーで出来ている気がする。単純だけど精密で、思っていたよりずっと壊れやすく、治るのにとても時間がかかる装置……。砂漠の真ん中ではいつだって孤独になれるのかもしれない。音楽なんてなくても。海の底のカプセルもいいかもしれない。でも僕は今のところ街の中に住んでいて、そこで自分が満足出来る空間を作り上げなくてはならない。それには今、音楽が必要だ。



僕はまだまだだ。でも、きっと生きていける。生きることは透明になること。遠い遠い音を聴いて、風景に出会って、それから、遠く遠くへ何かを伝えようと願うこと。

よく眠って、明日はきっといい日になる。強い風が吹いている。世界が消失していくことに身を任せること。おやすみなさい。