主に物語についてのメモ


ナボコフは『アンナ・カレーニナ』を読むなら19世紀半ばのロシアの夜行列車の内装をよく知らなければならないと言う。具体的な細部が大事なのだと言う。だから、図解が大切なのだと。僕は、写真はあまり好きではない。実写の映像も。そこには想像の余地が無いからだ。目に見える世界は、どんなに具象的であっても、抽象画だ。人はいつか死ぬ。永遠や、真理に連なることはない。仮に、永遠や真理を信じられるようになったとしても、僕が、たったひとりで生きていることに変わりはない。世界には、意味なんて無い。本当は無なのだ。少なくとも、価値なんて存在しない。でも、個人性は、意味の無さに打ち勝てる。言葉では考えないこと。言葉ではない場所で言葉を書き、言葉を読むこと。言葉や音楽という、本当に論理的で、論理を超えたもの。僕が僕自身であること。本をうんと大事にすること。論理と非論理、現実と非現実の狭間で、本を読むこと。それから、世界を。社会に自分の身を溶け込ませないこと。知識を、たくさんたくさん纏いながら、知識を捨てて、本を読むこと。


図解が大事なら、最初から絵本かアニメを作ればいい、と思ったこともある。絵には出来ない、図にも出来ないところに、小説や、言葉の面白さがあるのだと、僕はずっと思っていた。けれど、図にはならないところを知るために、図になるところは出来るだけ、想像を使わずに、正確に読むべきだ、と今は思う。この、世界を出来るだけ細かく、あるがままを知りつつ、この世界に、執着しないこと。世界は、ものの集積ではないのだから。「無」にはいろいろな表れ方がある。五感の、あるがままを働かせること。五感(で感じられるもの)は、僕の世界の全てなのだから。僕には僕の世界があって、僕は赤が好きだ。感じること。想像すること。知ること。言葉を捨てること。そして、再度、言葉ではない場所で、言葉を使うこと。


ジェイムズ・ジョイスは「想像力とは記憶だ」と言った。僕もそう思う。記憶はいつも、孤独なものだ。今日、皆川博子さんの小説を読んでいたら「大きな石をおいた漬物樽から、においがながれる。」という文章に出くわした。漬物を漬ける、いかにも湿っぽい、暗い、日本らしいにおいを、僕はよく知っている。何ごとも経験だ。僕はヘロインをやったことがないので、ヘロインのにおいも、その感覚、快感も全然知らない。だから、ヘロインについて、僕は一切書けない。具体的な細部を知っていること、って、物語にしっかりした質量を与えるのに、とても便利だ。けれども……僕には、現実的な骨格を出来るだけ自分の文章に与えたくない、という気持ちが強くあって、何故なら、自分の書く物語に出来るだけの、時間的/空間的な、普遍性を与えたいと思うからだ。そして、映像化不可能な淡さ、柔らかさが欲しい。文章、小説や、就中詩の言葉を、絵にして理解するなんて馬鹿げている。出来るだけ、どこの国や星の人にでも、人じゃなくても、どんなに未来の人にでも通じるような物語の方が純粋だと思う。明確に想像できるけれど、やはり映像や五感に互換してではなく、語感によって伝わる、ということ。「てふてふが一匹、韃靼海峡を渡っていった」という詩があるけれど、この詩は、ふわふわして覚束ない感じの「てふてふ」という語感と、「韃靼」といういかにも寒くて厳ついイメージのする単語の対比が、何か途方も無い広さと、覚束なさを感じさせる。僕は韃靼海峡なんて全く知らない。この詩は、韃靼海峡が何か知らなくても読める詩だ。作者だって、韃靼海峡を見たことが無かったかもしれないし、第一、蝶が一匹、韃靼海峡を渡っていくところをずっと見ていた訳ではないだろうから、これは実体験の詩ではないと思う。正岡子規は実体験以外の詩を、空想上のものだと言ってこき下ろしたし、小林秀雄本居宣長の歌った「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」という短歌を、今の人にはたいへん難しい歌だと言っている。何故なら今の人は桜と言ってもソメイヨシノしか知らないから。山桜を知らなければもちろんこの歌は分からないのだと。でも同時に本居宣長は、「古いものは掘り起こしてはいけない。歴史は文献から想像するのでなくてはいけない。古墳なんか掘ったって、弁当の殻が出てくるだけだ」ということを言っていたらしい。それも、小林秀雄が言っていたことだ。また中原中也は「古い作品の紹介者は、古代の棺はこういう風だった、なんて断り書きをする。棺の形がいかに変わろうと、ダダイストが「棺」といえば、いつの時代でも「棺」として通る所に、ダダの永遠性がある。」と書いていて、僕は中也の言いたいことが、非常によく分かる。僕は、実体験をあまり取り入れたくないし、内輪でしか通じない、例えば日本人にしか伝わらない表現をしたくない。帰属感が嫌いだ。何だか引用が多いのだけど、西脇順三郎は、「エリオットはそばやがんもどきの味を知らなかったから詩に哀愁の度合が足りない」と書いていて、その言葉の意味がまるで分からないでもない自分が悔しい感じがする。大体において、活字で書かれたものが映像化されると興醒めする。小説を読んで思い描いていたイメージは、遠くて淡くて、とても美しい。それは心の中で自分の思い出のようになっている。「長門峡に、水は流れてありにけり。」から始まる、中也の『冬の長門峡』という詩が、僕は大好きなのだけど、長門峡の写真を、僕はあまり見たくない。映像であるような、映像ではないような、遠くて、幻想的なイメージがとても好きだからだ。長門峡の写真を見たって、多分そこらの河原と変わりないだろうし、中也の中でも、長門峡のイメージは、実際に眼前で見た河原ではなく、思い出の中で光を与えられた、現実にはもはや存在しない長門峡だろうから。僕が実体験として、何か、失われた時間、美しいものの、忘れがたい感じだけを持っていれば、十分この詩は読めるのであって、長門峡の場所や地形や歴史を知ったからと言って、また中也が何歳のとき、どこの料亭のどの窓から長門峡を眺めていたか分かったところで、中也の気持ちには全く近付けないと思う。ただし、実際に長門峡に行ってみたい、とは思う。そこで、欄干に溢れる、オレンジ色の光を見たい。そして、その情景を、心の深くに沈めたい。中也の詩には川のイメージがよく出てきて、そして注釈書には丁寧にも、それは中也の生家の近くの川のイメージだ、と写真まで付いていたりする。……ナボコフは、地図や時刻表まで持ち出して、登場人物の足取りを細かく辿ることが、文学的な解釈よりずっと大事だと言う。しかし、リアリティを細かく追求することで、文章そのものが持つイメージを殺してしまうことにはならないのだろうか? ……僕は実のところ、どちら(リアリティかイメージか)の立場にも完全には与していない。文章表現の、他の表現と比べて弱い部分は、それが結局は、どんなに抽象的に書かれていたところで、既に知っているものの組み合わせでしかないところだ。見たことも聞いたこともないことは書けないし、読めない。空も海も川も、風も色も音も、何にも知らなければ、読んでも想像のしようがない。「北海の風」という、短い言葉を読むだけで、冷たい潮風や曇天や、どんよりとした暗くて深い海が僕には浮かぶけれど、まあ、浮かぶイメージは人それぞれとしても、こんなに単純な表現であっても、「北」のイメージや、風が吹くことや、寒さや、時間の流れの感覚を知っているから、何かしら想像できるのであって、そして想像しなければ言葉には何ひとつ情報は含まれていないのであって、つまり何かしらの実体験は、文章を読むのに不可欠だ。そこが数学や音楽とは違う。かなりの部分を想像で補わなくてはならない。音楽なら、そんなことはない。何の前知識が無くても、どんな音楽でも、そのままに楽しむことが出来る。数学もそうだ。ピタゴラスの時代の背景や、当時の風習を知らなくても、もちろんピタゴラスの定理は分かる。
しかしまた、こうも思う。世界はこの世界ひとつだ。少なくとも今生きている僕にとって、世界はこの世界ひとつであり、他の世界は存在しない。けれど、小説は、もうひとつの独立した世界だ。その独立した世界を楽しむために、この唯一の世界の知識を援用することは、とても楽しい作業でもある。ゆっくりと、謎解きをするように、もうひとつの世界を細部に至るまで細かく構築していくこと。それは、読者としてとても誠実な態度なのではないか、と思う。少なくとも、曖昧に自分勝手に想像して、勝手に共感したり、読み捨てたりするよりは、たっぷり時間をかけて、想像の届かないところは冷静な知識で補って、読む方が、ずっと楽しい。そういう意味では、僕はかなりナボコフ寄りだ。作者が書いたそのままの世界を、出来るだけそのままに享受しようとする姿勢。その上で、自分の想像力によって、世界にさらなる緻密さと、膨らみを与える。それが物語の、一番楽しい読み方なのかもしれない。詩の場合は、想像力の占める割合が非常に大きい。けれども、やはり自分勝手な、勝手な共感で読むのではなく、作者が想像したとおりに、想像しようと努力すること。そして、その上で、五感を全開にして、感じること。
言葉の曖昧さ、内容の多くを読者の想像力に委ねなければならないこと、は同時に、言葉の大きな力なのではないか、と思う。分からないところは、うんと想像する。想像にはぶれや揺れがある。その揺れが、言葉の一番大切な部分だと思う。人間の、夢やイメージの部分には揺れがある。詩はそのことを端的に教えてくれる。心は湖のようだ。そこに、意味が不確定なままの言の葉がひとつひとつ落ちて行き、僕の中に波紋を作る。英語を読んでいても同じことを感じる。


ずっと、現実に不信感を抱いていた。感覚…五感によって物ごとを知っても、世界は分からないと思っていた。耳が聞こえず、味も分からず、眼も見えず、触感も無く、においも無く、おまけに身体が動かなくても、それでもやはり分かる真実だけが真実なのだと思っていた。あれがどう、これがどう、ではなく、ただ全てが存在しているということ、思考が可能だということ、そこから導き出される答えだけが、本当の答えなのだと。
今でもその考えは変わらない。僕は五感に助けられているというよりは、どちらかというと邪魔をされていると感じる。五感の外の世界に行きたい。生活感情を超えた領域に行きたい。けれど、その為に、使えるものは何でも使ってやろう、という気にもなっている。僕は眼を信じていないし、耳を信じていないし、鼻を信じていないし、舌を信じていないし、皮膚を信じていない。信じているのは、感情の存在と世界の不在、言葉と、音楽。いや、言葉と音楽でさえ、最終的には、つまりこの世界の「外」では、必要ないのかもしれない。そこには永遠の沈黙と静寂がある。あの世は、今この場所にある。僕はこの世に囚われすぎている。多分、ほぼ全ての人が囚われている、この世界に。でも、「この世」もまた、愛おしいものだ。「あの世」にはいつでも行ける。「この世」で正しく燃え尽きていくこと。死んで行くことだけが、大事なのかもしれない。丁寧に、丁寧に生きて。


結局の所、今生きている奇跡だけが永遠に続いていくのだと思う。


使えるなら何でもいい訳じゃない。僕の名前は、僕を識別できればそれでいい訳じゃない。ペンだって、書ければ何でもいい訳じゃない。スピーカーだって、聞こえれば何でもいい訳じゃないし、友達だって、いればいい訳じゃない。いつも苦しい。自分を破壊しながら、その度に再生しながら進むのが正しい道だって知ってる。全てに埃が積もっていく。もっと積もればいい。それこそが世界の、正しい在り方だから。僕には、無駄な情報をある程度シャットアウト出来る機能が付いていて、それは自分自身で割と気に入っている。


好きな音楽を基準に生活を順序立てていく。音楽には意識を集中し続けられる。今は深い海まで行ける。もっと。もっと潜らなければならない。


大抵のにおいは煙草のにおいで誤魔化しているのだけど、石鹸と芳香剤が気持ち悪い。郵便物や人からの送りものの移り香が、僕を悲しくて堪らなくさせる。僕は、大事にしておいたものほど、時々壊したくなってしまう悪い癖がある。自分の身体を引き裂く方が、まだずっと楽なのに。悲しくて堪らないとき、悲しみを何らかの欠損の形で覚えておきたいのだと思う。失ったものを思い出せば、悲しみも思い出せる。悲しみは僕の財産だ。今にしてみれば要らないものだけれど、悲しさの最中には、未来の僕に、この悲しみを絶対忘れさせたくない、と思う。でも、思い出せるのは喪失感ばかりだ。失ったものたち。何故そんなに悲しかったのか、今では全く覚えていない。大人になってからも、いろいろなものを失った。もうぬいぐるみは持たない。フィギュアも本当は捨てたいけれど、捨てたことばかり覚えてしまうので捨てられない。忘れてしまうのは、それはそれで嫌だ。……においは嫌いだ。大抵に於いて悲しみを運んでくるから。果物のにおいでさえ気持ち悪い。血は放っておくと魚河岸のどぶのようなにおいがする。自分の精液のにおいとか、爪のにおいとかは、何故か嫌にならない。それも非常に悪癖なのだと思うけれど、甘かったり、酸っぱかったり、他人の家の台所の匂いがするよりは、まだ動物系のにおいとか、土の乾いたにおいとか、煙とか、アスファルトのにおいとかの方がいい。それらは、まんべんなく悲しいにおいなので、鋭く僕の腸を怯えさせたりしないから。アダルトショップの奥の方で何故か必ずする、生ぬるい、異様に甘ったるいにおいも好き。キャメルは薪でお風呂を焚くときのにおいがする。今は春で、春のにおいは好きだ。季節のにおいは好き。


本当は、何があろうとも、どうあろうとも、自分ひとりでいるだけでも、幸せでいられるのだ。生きていることそのものが奇跡なのだから。


小説は探偵のように緻密に、詩人のように正確に、科学者のような想像力を以て読んでいくのがいい。そこはもうひとつの、旅するに値する、世界だから。


裁縫道具は、見ても全然ときめかないのは何故だろう? 煩雑な感じばかりがする。アウトドア用品のカタログを見ていると、どれも欲しくてわくわくするのに。「絎台」という単語は何か時代めいていて好きだけれど、L字型の木材でしかない実物は「絎台」というよりオドラデクみたいだ。


ひとりきりの世界から、ドアを少しだけ開けて、外界を覗く。どこまでも内面的に。


人の中の小さな善意を信じること。言葉が心を届け、心を揺らす、言葉が、僕の心を静かに揺らしてくれる感覚を忘れないこと。頭ではなく、心で感じること。あるいは、ナボコフ風に言えば、肩胛骨の間にある背筋のささやかな戦慄によって感じること。自分が何を出来るかということは、少なくとも、自分の幸せにはあまり関係ない。人と比べられる部分は、とても表面的で、僕の世界との関わりは、とても薄い。個人でいること。どこまでも深く、世界の優しさと、自分の心の奥深くの声に耳を澄ませ、よく感じようと努力すること。自分が生きていること、自分の生きる世界を、どこまでも愛すること。自分の心の底に、自分にとっての平和がある。それは、いつも、いつでも、ある。心が平和であることが、僕にとっての幸せだ。たったひとりの個人として、人を、世界を、自分勝手に愛すること。静かに、静かに、感じること。愛すること。自分の、愛着の中心にいること。世界には本当は何にも無いのかもしれない。けれど、心は、感情は、静かに、けれど確かに存在している。世界は優しさで満ちている。もしかしたらそのひとつひとつは小さな優しさであったとしても。見逃さなければきっと、世界は優しさで満ちているのだと思う。世界に存在する優しさを、ひとつひとつの細部を、見逃さずに生きること。多分、それが、アインシュタインも言ってた、この世に本当に存在するものである、「倫理観」を感じて生きることであって、そしてそれを感じること自体が、僕の中の「倫理観」なのかもしれない。「倫理観」って、通常は規律とかに束縛された、重たい言葉なのかもしれないけれど、本当はもっと、静かで、微妙で、ささやかな言葉なのだと思う。


万年筆の重さが指にちょうどいい。キーボードの叩き具合も指先に気持ちいい。素敵な万年筆。素敵なキーボード。


美しい。何もかもが在るべきままに。一日一日が過ぎていく。毎日世界は新しく、やって来ては去っていく。


カヒミ・カリィを聴いている。彼女は(2020年現在)もう十年間アルバムを出していなくて、子育てに、とても充実しているみたいなのだけど、またアルバムを出してくれたら嬉しいな、と思う。彼女の初期の、フレンチ・ポップ風の歌は、今はあまり聴かないけれど、よく聴いていたこともあった。高校生くらいの頃。2006年に『NUNKI』が出たとき、僕は本当にびっくりして、そのアルバムばかり聴くようになった。今も『NUNKI』はカヒミ・カリィのアルバムで一番多く聴いていて、それから活動を休止する直前に発表された『It's Here』(2010年)もよく聴いている。世界の全てのアルバムを合わせても、この二枚は、本当に優れたアルバムだと思う。特に『NUNKI』は、今はあまり注目されていなくても、ずっとずっと、この世界に残り続けるアルバムだと、僕は思ってる。


僕はいずれ消えていく存在。何を失っても、もう怖くはない。生きることは、失っていくこと。喉が壊れちゃってもいい。僕は叫びたい。


生きてるって、何て不思議なんだろう? 燃えるような情熱と、好奇心が必要だ。電球のように覚めた頭と、真空管のように熱い心。そして電気ウナギのように敏感な肌と、発電器官を持つこと。


声が、言葉が、ギターの音が、音楽が、届けてくれる、とても個人的な感情。


何よりも、心の平和と、夢みる気持ち。どこまでもどこまでも夢みる気持ちが大事なんだと思う。


他人と僕との違いは何か。他人のことはよく分からない。自分のこともよく分からない。他人のことはどうにもならない。自分のこともどうにもならない。とすれば、他人と僕に、一体どういう違いがあるというのだろう?