私が私自身に戻るとき

私が私自身に戻るとき。

ディスプレイから漏れ出る光。

ビートルズを聴きながら僕は海辺を旅している。

ビートルズは僕にとって旅だ。
ボブ・ディランは僕にとって感情の原石で魂の数式。
ジョニ・ミッチェルは感傷の魔法。
ニック・ドレイクは僕が存在することの答え。
ビョークは眠り。眠りから覚めた眠り。
レディオヘッドは僕がそこでだけ生きられる地球。
エイフェックス・ツインは沈黙の底のイメージの饒舌。夢。
グレン・グールドはミネラル・ウォーター。データとしての完璧な深海の記憶。
アンドラーシュ・シフは微笑。電子線で現在に繋がった大切な過去。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは感情の原理。白と黒の色彩論。
ジョイ・ディヴィジョンはこの世とあの世の無限の狭間。生と死の並列。
……

他にも好きなミュージシャンはいっぱいいる。無限にいるかもしれない。
でも、その殆どを知らずに、僕は死ぬのだ。多分、それは喜ばしいことなのだ。

今日一日、出来ることを、心を込めてして、生きていけること。それだけが幸福なこと。いろんなものを、自分なりに、丁寧に。心が描くままを描くこと。衒いなく告白すること。誰かに何かを与えようなんて、つまり感謝されようなんて、おこがましいことはやめること。

僕はやはり言葉だけは信じている。何故かは分からない。物理学や化学には、僕は馴染めないまま、一生を終えるかもしれない。音楽も信じている。言葉も、音楽も、信じているというより、もっと正確に言えば、僕の心に直接関係があるように感じる。外にあるものを無理して信じているのではなくて。世界に、特に物質世界に、どんな法則があろうとも、そもそも僕は、世界…外界の存在を、どうしても信じられない。この頃、詩の象徴的なヴィジョンには馴染めるようになってきた。それは昔の僕には無かったことだ。心にはいろんな風景がある。ただ死にゆくだけではない。僕は生きて、心の中を旅することが出来る。科学も、心の中の風景であるなら、愛せるかもしれない。科学とは実のところ人の願いかもしれない。僕は願いよりずっと透明なものを求めていると思う。

どんな科学も、世界観も、ひとつであるところの世界が分化していく様を描いている。易経だって陰と陽を三回掛け合わせて八つの卦を導き出し、さらに三回掛け合わせて、六十四の卦を作る。その六十四のヴィジョンで世界が出来上がっている、とする魅力的な世界観だ。白と黒だけで世界が出来ているという考え方は、そこからカラフルが導き出されるという世界観は、とても好きだ。数学だって元をたどれば0と1だけで複雑な世界が出来ている、と考える。僕は嫌いじゃ無いんだ。電子と陽子だって、波と粒だって。でも、僕はもっと一元論的だ。心と身体、のふたつでもない。たったひとつ、白だけで世界が出来ている、と感じる。世界は、デジタルではない。言葉は、0と1では出来ていない。単語という固体が、有限の組み合わせを得たものが言葉、なのではない。もっと混沌としたものだ。世界は混沌で出来ている。確立されたひとつのイメージなんてどこにもない。僕は、言葉が世界の元にあると、あるいは、言葉が世界の元にあるものと直接的な関係を持っている、と個人的に信じている。ある人は数にそれを見るかもしれない。それは分からない。僕は、目に見えるものに対しての不審感がある。それははっきりし過ぎているからだ。感覚的なクリアさは、混沌から僕を突き放す。はっきりし過ぎた物ごと、見えるものや、論理的に限定された言葉づかいには、感心すると同時に、いつも何か違和感を感じる。何か、無理に笑っていて、しかも何が無理なのか分からないでいるような。世界が言葉によって出来ているとは思わない。言葉は、世界そのものだから。世界が元素から出来ていると考えていいのなら、世界が音楽から出来ていると考えても構わない。言葉はいつも沈黙している。沈黙と死は近しい。沈黙と詩は近しい。言葉はあの世にある。朔太郎は、詩を、生きて動く心理学だ、と言った。それは嘘だと思う。生きて動く心理学は、音楽だ。

僕が書いていることは真実ではないと思う。けれど嘘でもない。世界が混沌であって、ひとつであるのに、なおかつ今僕が持っているスターバックスのマグカップが、スターバックスのマグカップであって、しかもそれが赤いことは不思議ではない。それはただ、そうであるものなのだ。そして僕は、ただそれがそうであるものを静かに受容している。存在なのか非在なのか、それはどうだっていい。愛してると言ってもいい。ただ、それがそれとして存在していることに。白い、混沌であると同時に、整然と個々のものがある世界。それが僕の生きている世界だ。ともかく、僕はそこに混乱を全く感じていない。言葉の上ではたいへん矛盾しているのに。……矛盾していること、それが世界の在り方。

少し眠ろう。