三月の水

暖かい日。庭先では記憶みたいに遠い色で、春の花が咲いていた。あまり着飾らない蝶が止まっていた。ひとしきり自己嫌悪して、ビールを飲んでローリング・ストーンズを懐かしさに浸りながら大音量で聴いて、意識をホワイト・ノイズで満たして、ひたすらノートに呪詛の言葉を書き殴っていて、結局は酔いが醒めたら、胃が痛くて、自分が何に混乱しているのかも分からない。美しくもないものばかりを形にしながら、目的地もないのに急いでいて。急速に(それでも一瞬の開花の景色の予感に)自分を喪ってしまえれば。(眼を瞑って見える景色についての具象画を意識へ浮かび上がらせようとすると、見ている僕は風景の中に死んでいってしまう。埋葬の記憶。鉛みたいな燃えかすの意識だけが残っていて。) 朝の光が止め処なく綺麗で、とてもまざまざとしていたから、コーヒーを丁寧に入れて飲んだ。(複雑な味。庭先でしばらくぼーっとする)。草の葉に露が浮いていて、それに太陽が当たってきらきらしていて、鳥たちが一生懸命鳴いてた。紫がかった薄灰色の蝶がはたはたしてて、草に止まって得意げに羽を開いたり閉じたりしていた。ぬるい空気と冷たい空気に境目があって、空気に複雑な流れがあることや、物音が空間的に調和していることの、静けさ。土の色。それをじっと見ていると、何もかもそのままでいい気がするし、……そのあとで自殺したくなることの慰めにはならなくても、……それでも息をちゃんと吸えて、空気に冷たい鉱物の固さがあるなら、それだけでも、覚束ない意識を抱えて生きているよりは、いい気がする。
キャメルは吸うたびにあんまり美味しくない、って思うけれど、一箱吸い終わる頃に、やっぱり美味しいかも、と思う。たまにはジタンが欲しい。フランスの、ジョン・レノンが吸っていた煙草。(ジタンの前は、ジョンはゴロワーズを吸っていたらしい。両方ともフランスの煙草。)ジタンの箱の白銀比に近い形と、憂鬱な感じの青が好きだ。ラッキー・ストライクはUKロックみたいで、ちょっと痛々しい感じだ。(最近までシャネルが吸っているのもジタンだと思ったいたんだけど、調べてみるとケントだった。イギリスの煙草だ。) ぼんやり。アコースティック・ギターの音と、水道の水の音。LEDの光。救急車の音、壁の向こうから。……痛み、立ちくらみ、腕、目眩。観葉植物、四角い時計、秒針…。 …やかんでお湯を沸かす、コツコツという音、ヘッドホンの中の音楽、ボブ・ディランヴェルヴェット・アンダーグラウンド。ロールケーキ。父がプリンターを貸してくれ、と言う。両親と、ギターの色についてのくだらない話。(母は眠そう。)今日はもこもこのフリースでは暑いくらいだ。
僕はテレキャスターが好きで、チェリー・サンバースト(正式には‘aged cherry burst’)のテレキャスターを持っている。特にサンバーストが好きなわけじゃないと思うのに、惹かれる、って言うか、自然に選んでしまう……。赤っぽいアコースティック・ギター。 (空中の透明な墓碑銘、ここを過ぎていく歴史にも、神経の蔦が絡まっていく。) コップに付いた水滴についての話。やわらかい風景。霞んでいく手のひら。僕たちが共通して生きている現実…? 部屋の中。パソコンの中の風景、親しげなコンピューター・グラフィックス、Netflix、pixiv、微かなノイズ、流しっぱなしのアニメ、上がっていく煙草の煙(溶けていく)、いろいろな言語が混ざり合った放送(Radio, live transmission...)、BBCKCRW、RTÉ(...Listen to the silence)、Audibleで購入した‘Bonjour Tristesse’、とてもフェミニンなナレーション、AppleBooksで、イギリス英語とアメリカ英語を交互に聴く、‘The Great Gatsby’、‘Lolita’、‘Alice's Adventures in Wonderland’、‘The Prophet’。飽きるとグレートフル・デッドを聴いて、それから小林秀雄の講演集…、マグカップの苺柄、スコールの昭和っぽい緑、デスクライトの黄土色(胆汁の色みたい)、イオナ・イオネスコの写真集の暗く赤い表紙、ポロック、濁流のような青、空間、僕の感情、欲望、眠気、溶け合った音、音声、鳥の声…、春の草の匂い、灰色の感覚、星の音、アマゾンで売られている著作権切れの詩集、流れて行くフェルメールの青、クラシック・ギターが欲しい、iMacが欲しい……、 引き出しの中に乱雑に放り込まれた錠剤、冷臟庫の中で冷え続けるワイン(の鈍い音、僕の肩が震える、白い夢の感覚)、曲の切れ目、カタカタとタイピングする音、僕の指、関節、皮膚が粟立っていく、それから、またベース音(TB-303のよう)、明るいギターの音、Fコードのアルペジオ、その指、男性的な音、律儀さと、柔らかさ、微笑…、間奏、同じコードを今度は下降する旋律で…、そこに水琴窟のようなピアノ、(メロトロンが遠く鳴っている? すべては優しく過ぎ去っていく。 (うとうと眠る)
頭がぼんやりする。リポビタンDを飲む。何とも甘ったるい味。お腹がゆるくなるみたいな味。 食欲が無いので、アイスとケーキを食べて、コーヒーを飲んで、キュウリをかじって、ぬるいお茶漬けを食べた。ちびちび食べていたから、ご飯がすっかりふやけてた。 煩雑な、頭の中。