雪解け水は永遠に(edit)


永遠の無を、感じさせる、感情に色づけをしない、過剰な変遷を僕に感じさせない、多分に地味な、感情の多忙な変化を強いない音楽が、僕は、本当は好きだ。故に僕はバッハが好きで、過剰さの排された、少人数での演奏(例えば独奏や、トリオ、バンド演奏)が好きで、コンサートホールよりも、部屋の中で鳴っているような音楽が好きだ。とは言っても例外は多くて、グレイトフル・デッドチャールズ・ミンガスなど、大規模なホールや、広大な野外を連想させる音楽も、時々かなり好きで、それは彼らが、聴衆のひとりひとりの、中で流れる時間、小宇宙、個人的な死の味、無を、尊重しているように思えるからだ。タイトに。それとは反対に、多人数での連帯を錯覚させたり、人を一時の熱狂的な空騒ぎに誘うような音楽は、僕は苦手だ。特別な人為的な時間は、僕は要らない。
言葉も。華美な音楽を連想させるような小説や詩、衒学的なもの、生活や、あまりに現代の一時的な社会的現在に阿ったものが、僕はとても苦手で、もっと抽象的なもの、永遠に、退屈なもの、一見するととても無意味なもの、そういう詩や小説が、僕は好きだ。素直な自身の生活的・身体的感情の吐露よりも、永遠に、永遠に見惚れているような。(故に僕は万葉集古今和歌集よりも、新古今和歌集が一番好きなのかもしれない。たしかに華美ではあるけれども、短歌の形式が、情感に陥りすぎない、端正さを保たせているし、それは何か、悠久なるものに対する、憧れのようなものを、僕に感じさせるから。)
それなのに、僕はカラフルな絵に惹かれ、退屈さを忘れさせてくれる、感傷的な激情的な音楽を望んでしまう。そしてそこに、背筋や肩が震えるような、感情の浅瀬の弾ける波のような、快感を感じ、中毒的な甘さに耽溺してしまう。そしてそれを、僕は、罪深いほどに、大事なものから離れてしまう、浅い欲望の産物だと感じる。なのに、脳の中で、神経網がぷちぷち弾け、光に満ちる感覚に、ある種の正当性を与えることをやめられない。罪深さと同時に本気で、本当に心の底から、カラフルさやポップさも、なかんずく俗っぽさ、現代を生きる感覚も、言いしれないくらいに完璧に大事なものだと、何処かで感じている、気がする。「高く悟りて俗に帰す」という松尾芭蕉の言葉の含蓄を、半ば疑いながら、半ば真実だと、ややあやふやに、でも多分確実に、真実であると、心の何処かで感じている。多分、僕は高く悟っていないのだろう。だからそこから俗に帰るということの大切さも、まだ空想上でしか、なぞることが、出来ないのだろう。ポップな錯覚、幻想の熱さ、冷たさ、柔らかさ。僕が赤に惹かれるということ。やわらかい自由な、何処までも行ける、踊れる泳げる身体に憧れるということ。それも含めて正しく世界の全てなのだということ、時に僕は笑い出したくなるくらいに、震えるような精確な指先と、自由な僕のファルセット混じりの歌声と、エンドルフィンに満ちた背骨の内側で、そのことを確信する。歌やギターや活字の世界を、読んで書いて、聴いて、演奏しながら、歌いながら踊りながら、とうとう僕は笑い出してしまう。ギターや声の音が、どんどんノイズ混じりに、音域が音色がレンジが拡がり、空間は痺れるように僕の身体に混じり、僕の皮膚は内臓や骨や、繊維や血混じりに、空間に何処までも、拡散していく。死の味のスパイシーでフレッシュなバージョン。打ち震えるように涙目になり、音楽そのものの空間に手を翳し、虚空を撫で、両腕と両手で指揮を取るように踊る。個人的な、まるで全ての人の感覚を含んだような、自由で全身が満ちたような、踊り。そして、そのあとで、僕はそのことを、罪深いと感じる。そして、バッハを聴く。テクノやポップやアニソンを浴びながらイラストやアニメのヴィヴィッドな光線に脳を揺らせることをやめて。文学的になる。文学的になる。そして、ギターはポップとフィジカルと文学の、全てに跨がるもの、音だと思う。愛すべきものは、きっと全てが全てとしてひとつに纏まり、同時に全てが全てのままに、それぞれの光を、振動数を発し続ける、全ての全てが全ての全て、個体であり総体、そういう場所にあるのだと、思う。



言葉は借り物。有限の組み合わせ。今日という火曜日は、頭の中で何の匂いも発散しない。何の手触りも無い。震えも無い。音さえ無い火曜日。手のひらをお椀の形にしても、火曜日は僕の指の細胞膜を通過してしまう。火曜日の空気を瓶に閉じ込めても、火曜日はそこに留まってはくれない。それが落ちるカランという音もせず、今日という火曜日は、僕をそこに含め、僕を火曜日自身から取り去ってしまう。けれど「火曜日」という、言葉には手触りがある。名付けることは、何も無いところに五感をピン留めする行為だ。一日の中身は時計によって、十二の名前に(二度)分割される。一時には一時の、三時には三時の匂いがある。一時や三時という実体がある訳ではないのに。本当に、この世に、本当に存在するものは何だろう、と時々僕は考える。物質は、この頃では、概念だという。物質を本当に細かく、細かく見ていくと、一番細かい粒は、粒ではなく波のようなもので、それ自体には質量が無い、と言われている。人文学的だ。全ては概念なのだろうか? 物質が本当は存在しないのだとしたら、流れだけが在るのだとしたら、僕に分かるのは、僕は、全ては流れ去っていく、と僕が感じている、ということ。それだけだ。僕には心があって、何も無いところに何かを見ている。何かを聴いている。心もまた空想なのだとしても、少なくとも、空想は存在する。何を基盤にして? 川の流れは、水が流れている。活字は、言葉が、音楽は、音が流れている。では世界そのものは? 無が流れているのだろうか? 流れとは、何かが流れることだし、何かが、ここから、あるいは何処かから、何処かへ、流れ続けることだ。川には始流があって出口がある。音楽には最初の音があって、終わりの音がある。坂本龍一は始まりも無く終わりも無い音楽、時間を刻まない音楽、音の部屋のようなものを、この頃は作りたい、と言っていた。けれど部屋にはやはりドアがあり、音を鑑賞する人、音の風景にひと時身体を預ける人にとっては、永遠的な音楽も、やはり何処かで音が聞こえ始め、何処かで音が途切れてしまう、馴染みの音楽と同じ形態を有している。ドアという空間の一点を、あるいは空間的距離を、序曲と終曲にして。永遠のように退屈な音楽は、在るかもしれない。雅楽グレゴリオ聖歌、バッハの大方の音楽。永遠を錯覚させるような天国的な音楽。音楽は、僕の感情を伴奏にして成立する。もしくは感情が、いわゆる音楽だけではなく、生活や瞑想をも音楽として、僕に感じさせ、……もしくは、時間とは感情そのものだ。と、仮定する。そこでも、やはり、感情とは、何かの流れであり、始まりと終わりがあるものなのだろうか? 僕は感情は無に思える。感情だけが、在るとすれば、永遠も、在るに違いない。何故なら、無には始まりは無く、あるいは永遠の過去、永遠の今、永遠の未来を含み、それは何せ無なのだから、何かが流れる、その「何か」を実体とせず、流れそのものを実体だと、僕の心に感じさせるものだから。



小さな世界に住むほど大きな世界が見える。ポップな世界に原始が見える。世界は、腐敗しない、停滞しない、後退しない。孤独な空間が見える。空っぽになった胸の底に、音楽が満ちていく。ここにはコーヒーも無い。コカコーラも無い。アップルタイザーも無いし、ペリエも無い。おまけに錠剤の一粒すら無い。僕は麦茶を飲みながら、生きることの無用さが、澱んだ浅瀬のように溜まった、部屋の空気を、一掬いずつ、嫌々飲んでいる。首筋が染みるように痛くなる。本数が増え、値段が上がったために、ラッキーストライクから、キャメルに宗旨替えした。心が望んだことではない。生活の記憶が、夜の夢を硬化させ、昼間の会話の余韻が、そこに無数の引っかき傷を付ける。僕は傷の数を数え、夜の悲しみに身を寄せたく思う。泣きながら老婆の胸に抱かれたい。地球が宇宙のダストボックスみたいに思える、ここは希望の無い、宇宙の底だから、僕は羽を毟られた鳥だから。死にたさすら切実ではなくて、傷は僕の心の外殻の、外に付いていて、そして僕はその傷が、僕の世界を突き破り、心臓を刺し貫くことを望んでいる。肩がほんのり、紫色の吐き気を催すように痛い。誰も、誰も僕を傷付けられない。僕は腕を切りながら眠気を覚える。死にたいの繰り返しが、僕の一日を大まかに区切る。時間は弛緩している。ここには夜は無い。窓の外にもドアの外にも夜は無くて、街の人たちや家族の、祈りに欠けた、疲れた眠りだけがある。予感の予感。眠気。真夜中。

修飾詞の多い文章を書いているのは、最近僕がよく小説を読んでいるためで、夜の寂しさを含んだ匂いにも、僕の嗅覚は、鈍感になってしまった。死んだ記憶の浅瀬から、割れた、けれどもまだ少しはましに心を映す鏡のような、言葉を拾い集めているだけ。手を伸ばしても触れることの出来ない距離にディスプレイがある。僕はデジタルな感情の起伏の激しさが好きだ。…好きだった。赤と白と黒。くっきりした色合いを保った感情が好きだった。今や僕の気分は四六時中、三毛猫模様にいつも斑だ。昼間の赤を、あるいは白を、夜、黒い活字体に乗せて裁断し、縫製するのが好きだった。言葉の構造は、澱んだ心から透明な水を、金や水晶やダイアモンドを、掬い出してくれる。頭の中にはきちんと整理されて清潔な、活字ケースがあって、そこに漢字やひらがなや、カタカナ、アルファベットが、きちんと仕切られ、分類されて並んでいる。どんなに澱んだ心にも、透き通る魂の余韻は含まれている。僕は、死にたいのか、死にたくないのか、分からない。前者なら遺書を書き、後者なら夢を描くだろう。どちらにしても、それは印字されると美しい、僕の正しく清潔な、生きた証となるだろう。けれども僕の、今の希望は、ただ眠りたい。眠る間に他人になりたい。起きれば目覚めて、透明な意識で、希望に満ちた文章を、コンテで引かれた素描のような、モノクロに美しい、右と左の指先で、いつまでも、踊るように叩いていたい。

起きている間、半分固形で半分液体のような、目には見えない疑問形が、常に視界や頭の中で蠢いている。心は海のようなもの。半分固形の悩みのようなものが浅瀬にべたべた浮いて、底が見えない。僕が昔、詩や小説や音楽や、あるいは風景から感じていた、疼きのような成分は、僕の心の底に届く前に、その疑問形に、ぽたぽた溶けて行ってしまう。疑問形は、少しずつ滲み出し、澄んでいた僕の心の成分を、少しずつ変えていく。僕はもう昔の僕ではない。風は一面的に吹き、明け方に霧の中で光る信号機の匂いもどこかに行ってしまった。
もうすぐ夜が明ける。今日は眠れないかもしれない。薬はこの間オーバードースしたので、今は一錠も無い。今日は自動車免許の更新に行かなければならないのに。



私は自由になりたい。濁った意識の殻を突き抜けたい。あるいは生命の可能性に満ちた、純水に似た、私の心の、魂の底に、行きたい。過去十年、いやもう二十年の、本来一筋に続くはずの、私の記憶の帯(本来それはカラフルなリボンだ)は解けている。脈絡の無い記憶の中で、音楽だけが輪郭を保っている。音楽は真っ赤な水晶のように、解けて夜の雲のようになった記憶の中に、少しの意識で触れられるほど近くに、浮いている。それから、ある種の言葉。私は言葉を、探し続けている。言葉は音楽よりも遠い。けれど私は遠さが好きだ。その遠さを探る、意識の指先が好きだ。

眠らないまま警察署に行って、免許の更新を済ませてきた。帰ってきてから、三時間ほど眠った。何だか幼稚な殺人者の作文みたいなものを書いてるなあ。

パソコンの画面は時々、泣きたくなるくらい美しい。音楽は時々、寒気で震えるほど素晴らしい。でも、時々だ。抗鬱剤がうまいことやわらかい薬理作用で神経網を水のように澄ませてくれたとき。快感が気泡のように弾ける。ディスプレイの空が実際の空よりもずっと新しくて奥行きがある。未来みたい。軽い躁状態の浮かれは、例えばpixivのイラストをすんなりと脳幹に直送し、僕に軽い未来を錯覚させてくれる。憂鬱なときは、お腹を殴られて、風穴が空いて、その穴がずずずっと身体全体を吸い込んでいくような心地がする。僕はiPodの中に、たくさんの、音楽という薬を列挙している。その曲の数は二万になったり一万になったりする。現在は正確に13073曲入っている。その全てが灰色の掟のように頑なな空き瓶に感じられるとき、僕は空き瓶を蹴飛ばす元気も無く、雨の音なんかに苛立っている。iPodの中には金属の屋根に降る雷雨の音なんかも入っているのだ。そういうアプリがある。植物の呼吸の音が聴きたい。以前の鬱は違った。もっと身体が重く、厚ぼったい金属に囲まれた、狭い金庫のような居場所に、押し込められているような感じがした。あるいは首から砲丸のような大きさと重さの錠前をぶら下げられているような。重力を感じてた気がする。部屋の外で父が何やら言っている。日常の言葉って、どうしてこんなに醜いのだろう。活字の静けさ、アニメの声の整頓された清潔さは、そこにはない。それは僕を、間違ったものを飲み込んだときのように、嫌な気分にさせる。このところ三週間くらい憂鬱が続いていた。空虚で、透明な軽石のようなものを内臓いっぱいに詰め込まれたような。それで、長い時間、何もせずに寝ていた。人は身体があって初めて自由になれる。言葉は皮膚だ、と言った哲学者がいた。僕はその通りだと思う。歌は入れ墨、とジョニ・ミッチェルは歌った。



夜中。孤独がぽたぽた落ちていく音。なんてしない。音のしない羽虫が、何処か遠くではためいている。夜の輪郭はぼんやりとしていて、しんと口を噤んでいるのは、僕の心臓の音。吐き気がする。夜の粒子の気の逸り。いつもと同じことを書いている。時間の無駄だ、と思う。生きることは時間の無駄だ。でも死んでいるよりは、生きている方が少しいい。だから書いている。背中の痛みが震えに変わる。ヘッドホンの中でスネアの角が刻まれている。詰まりきっていた砂時計がさらさらと流れ始める。記憶の中の夜の公園。冷たくなった柵。非現実的に、網膜の中で霞む月。もしくは……死が濃密に絡まった黒い山の陰から、見下ろした街の、光の粒たち。その光は、僕のためには無かった。祈るためにも、呪うためにも。街の光は、画素数の落ちた、ひと昔前のポリゴンのように、夜の底で極端につまらなくて死んでしまったように、揺れもしなかった。現実から剥がされたとき、死の向こう側に行けるか? 現実が欲しかった。僕は、現実が欲しかった。光は全て錯覚だ。それは空で出来ている。実体とは心の中の位置関係だ。他人そのものは、いるとも言えるし、いないとも言える。何の力も持たないピースに溢れたチェス盤としての宇宙。それは、存在しないボードゲームと全く同じ。現実というゲームのルールを受け容れたときにだけ、人間というピースは意味を持つ。それは僕の受け容れた幻想のゲームに直接関わってくるからだ。現実に入る技術を覚える。そして、現実から出る。あるいは違う現実に行く。現実そのものは存在しない。ルールがあるだけ。そして目には見えない概念としてのルールが無限に多層化されたもの、それが本来の現実だ。チェスプレーヤーはチェス盤というもうひとつの海(また街、光、宇宙…)を持っているから羨ましい。違う宇宙を出たり入ったり出来るとき、ひとつの現実の中でしか効力を発揮しない、疲れや老いや劣等感や憂鬱という概念は意味を持たなくなる。空虚とは、何もかもが意味を持たないのに、その上しかもゲーム内に留まること。空っぽのボード、力の無い力関係、独りずもう。それは無意味で、そして無意味は正しい。「ゲームなんかして何になる?」という疑問を発することは、現実というゲームに自らがすっぽり嵌まっていることに疑問を挟まないこと。生活の延長としての、つまり生活(としての現実)に「役に立つ」という意味での、「意味がある」ことは、いわゆる「世界」という生活のルールに、世俗的な意味での世界の果てに、自らを灰色に閉じ込めてしまう概念、概念、概念の、羅列。音楽は「生活にとっては」全く意味が無い。生活という、ゲームには。こじつけみたいに、「音楽は健康にいい」とか「好きな音楽は気分をリフレッシュさせる」と言うことは出来る。でもそれらの言葉の根底は、生活世界にもちろん根ざしていて、生活世界はいつも半壊した、継ぎ接ぎだらけの、常に自分と自分の世界を中途半端だけれど正常であると言い聞かせなければ生きていけない程度の、つまり疲れる世界だ。みんな信心を持っている。世界が壊れかけたとき、ゲームを降りるよりは精神病院に行く程度に。信心深い。生活世界の延長として、ゲームや言葉や音楽を理解してはいけない。いや、別にいいのだけど、世界はひとつではないことを常に頭の隅では理解していなければ、たったひとつきりの現実という「世界」から、永遠に、完璧に永遠に、出られなくなる。生活の中で産まれ、生活の中で死ぬのだ。そしてそれは本当は嘘だ。嘘であり、本当でもある。(「嘘」や「本当」という)言葉とは、基本的には生活世界の中での利便性に沿って援用され、要請される、単なる決まりきった道具に過ぎないからだ。その単なる道具(としての言葉)のルールは常に未完成ながらも、常にある一定の白さと黒さを単語や文節に纏わせていて、感情とはあまり関係ないところで、言葉は世界に白黒を微妙にはっきりと、付け(させ)てしまう。よって「生」は白、「死」は黒、「私は産まれた。この世界で。お母さんから」はこの現実の地平上で限りなく白、「私は永遠である」は、白っぽい、本当に白っぽい輝きを覗かせながら、限りなく黒。あるいは(人によっては)まったくの黒。でも、そんなのみんな嘘だ。言葉は言葉の世界を既に常に持ち得ていて、それは生活の言葉とは関係無い場所で育ち続けている。この、世界はひとつではないのだ。
よって言葉が(生活の中での)言葉上、「無意味」であるとしても、言葉を言葉そのものの命に従って活用すると、言葉が生活の便宜上産まれた(作られた)という説には反するように、言葉が世界の全てとして、言葉が言葉であるという、ただその一点を中心とした、言葉のワールドだけが「在って」しまって、言葉と言葉と言葉のワールドだけがこの場所で、全ての全てとして際限なく、世界の果てまでも意味を持ち得てしまう。言葉、それ自体が意味を持ち、全ての全てが光に満ちた「世界の全て」がどうしても。世界は、あり得てしまう。言葉の命とは、言葉を命として扱う、ということであり、同時に命として扱われた言葉の命が、「僕」や「私」を言葉の中に位置付け、意味付けてくれる、ということでもある。私が命を吹き込むとき、私は命に含まれる。概念的なアニミズム。眩しさと影。信じること。
言葉の世界、音楽の世界は、経験として(僕の経験上)、存在する。言葉の世界は、今は、日本語の世界だけ知っている。日本語は(日本人としての)生活と密接に関連するようで、生活からは独立した、別の、「言葉(日本語)の世界」を形成している、とも言える。そしてその、世界の中で、僕は完璧に自由だ。数学の世界、チェスの世界、ピアニストの世界、あるいはある種のスポーツの世界ももしかしたら、あり得るのだろう。それぞれはそれぞれで、世界の全てだ。例えば……ひとつの楽器を自由に弾けるということは、世界をひとつ会得することだ。世界は、世界から離れたとき、ある愛しさの、光を放つ。その距離は温度と比例している。僕はピアニストに憧れているけれど(あまりピアノを弾かないのは)、ピアノは(現実や、生活という)この世界から離れすぎてしまう(から)かもしれない。たとえば肌の温度という世界の側面から。ピアノ(の独奏)は、もっとも孤独な音がする。孤独を包み孤独に包まれる、孤独の表現としての音楽を象徴するような音。ギターは愛しさの光に包まれている。だから僕は、ピアノをとても愛しているし、ギターがとても好きなのかもしれない。(卓越した)ピアノは永遠と無限に跨がる。ギターは永遠と無限、瞬きと有限に跨がる。愛しさの温度のように。あるいはたたずまいがそれぞれの楽器の世界の独立性と有機性を象徴しているのかもしれない。ギターはとても皮膚に近い。ギターほど、胸に近くかき抱く楽器は、他に無い。抱きしめ合うのにちょうどいい、ひんやりとした、木の肌の温度。言葉は完全にそうで、僕が言葉を好きなのは、生活世界から独立してありながら、その重力圏内を出たり、入ったりしたいから、かもしれない。というか、そうだと思う。その延長で、僕の「好き」を拡大するならば、僕はフランス語に憧れるのだけど、何故ならフランス語には、英語よりも感情的で有機的な手触りを感じるのだけど、僕はいつもフランス語の命の一歩手前の、森の汀で身体を固くして、さ迷い続けてしまう。不慣れだからというよりも、もしかしたらどうしても踏み越えられないかもしれない、抵抗がある。後込んでしまう。井筒俊彦さんは、抵抗の無い言語はあまり面白くない、と言っていて、その例として英語とフランス語を挙げていた。言葉の中にある、抵抗の部分が、そこにこそ何かを病的なまでに拡大させる力があるのか、井筒さんは、文明を興した人たちの言語には、必ず抵抗がある、と言ってて、ギリシャ語やイスラムの言葉を面白がっていた。話は全然ずれるのだけど、個人的でとても生活的な雑談のようなことを書くのだけど、言語の天才(だと思う)の井筒さんが「日本語はとても面白い」と言っていたのは素直に嬉しくて、それは彼が全然日本主義ではない視点からそう言ってくれている、と思うためで、しかも彼は、もし東洋の宗教や哲学に興味を持たなかったら、本当は古今和歌集新古今和歌集の研究をしたかった、と言っていた。ロジカルな人がリリカルな発言をするのは面白い。話はまた変わるのだけど、中也の詩には、いつもふわりとした感触と、触れるか触れないかのところの、もどかしいような懐かしさがある。生活を、別の視点から眺めているというか、生活と、生活でないところの、境界上に中也はいる、という気がする。僕は三大和歌集(万葉集古今和歌集新古今和歌集)の中で、新古今和歌集に、今のところ一番惹かれるのだけど、それは、そこには生活に微妙に触れつつ、まったくの概念としての言葉にも微妙に触れるような、あまりに月や花を見詰めすぎて、月や花が月や花に見えなくなってきた瞬間のような、微妙な視点の揺れというか、遠さに、選者の意識が集中しているような、少し中也の詩に似ているような軽さと、眺めの感覚があるように感じられるからだ。万葉集はあまりに生活の実感、実感とうるさい気がするし、古今和歌集は一見概念的に見えるけれど、それは単に生活の中の理屈に過ぎない、という気がする。……英語には僕はすんなり入れる。ただ馴染んでいるからかもしれないけれど。英語の「世界」、独立したそこまでは、まだ行けないけれど。生活の世界は、とても不自由だ。かと言って僕は生活の世界を敵視している訳では、全然無い。懐かしさとあたたかさ、愛しさと温度を、微妙に感じられるような、世界以外の別世界的な距離が好きだ。そして、時に僕は生活の世界から、まったく独立したくもなる。大抵それはネガティブな願望で、疲れ切っていて、生活の中での「生」からかけ離れるためなら、もちろん、つまりさっさと死にたくなる。時々それはポジティブな希望で、無重力の中で、溶けてしまいたいような、地上から途方もなく離れたいような、人の温度から全く隔絶された世界に行ってしまいたいような、冷たく鋭く、何だかフィジカルさとぷっつり切れた理念としての切望感に身体をざくざくに刻まれるような、巨大な微笑のような、落下感に似た感覚、もしくは無音と死に焦がれるような神経の小さな痛み/快感があって、テクノやピアノにひどく惹かれたり、ギターや言葉に違和感を持ったり、数字や数式の純粋さにとても惹かれたりする。世界と別世界の架空の境界線上でうろうろしていたい僕は、時々無性に飛びたくなる。むしろ消えたくなる。
楽器を覚えることは、向こうの世界に行くこと。と同時に、向こうとこちらを繋げる魔法のミーティア…メディアを手に入れること。その繋がりの弱さ強さはある。純粋な数学は、たとえばこちら側の世界とは、まるで干渉し合わない。どんなに優れた数式も、数学を知らない生活人には、全く何の効力ももたらさない。そこが数学のいいところであり、死にたいほど孤独な部分だ。まるで遠隔操作の戦闘機で、寝起きに人を殺したあと、朝ご飯に病的なほど脂っこい目玉焼きを食べなきゃならないみたいに、病的に孤独。という勝手な感想を、数学に対して多分に偏見として僕は、持っていて、とても優れた数学の中では、僕は生きられないのではないか、と勝手に思っていて、でもそこは、そこでだけで生きられるなら、数学は、死後の世界のように静かで甘やかだろう、という憧れの気持ちも、ずっと持っている。(……例えば、ネットゲームの中毒者がゲームのしすぎで死ぬことに、羨望に似た気持ちを抱くみたいに?)

赤に憧れる。別の話。自由さに。軽やかさに。ヴァイオリンやサックスの、心の自由さがそのまま音になるような、心の中の季節の水が溢れるような、流れるような、迸るような、優雅な、軽やかさに。同時に青にも憧れる。静かな、ほの暗い、砂の風のような。海底の、クジラの、チェロに似た、大きな大きな、寝言のような。ピアノは赤でも青でもなくて、あくまで白と黒で、ギターは赤かったり青かったり、黒っぽかったり、白っぽかったりする。生活はカラフルというより見分けが付かないほど淀んでいることが多い。ヴォミットカラーにマーブルに。……黒と白にも憧れる。精神の底や、あまりに心身に近い場所、もしくはあまりに離れた場所には、光と影、白と黒しか無い。色は心の音色。音色が色を持たないくらいの遠さ/深さに憧れる。言葉は、完璧に透明になることは出来ない、と僕はほとんど見てきたように知っている、というかそう思っている、それでいいと。透明な底から出てきた言葉も、雨粒のように、本当に純粋ではないし、天から湧いたものではない。言葉や雨を透して透明な空を覗き見ることは出来るけれど、それは透明そのものではない。もちろんこれは、生活世界からの視点に拠って立って書いていることなのだけど。言葉や音楽の世界を独立させると、そこには色が無い。物質そのものに色がある訳ではないように。でも、大体に於いて僕は、生活をどう整えるか、ということを考えていて、言葉や音楽の世界に永住しているわけではない。永遠をすぐ忘れる。永遠があることをお守りのようにして、生活の嫌さをしのぐことは少し出来る。本当の空っぽ、その空っぽを成り立たせる基盤や理さえも、心さえも存在しないほどの空っぽ、宗教や哲学に僕が求める、それらの理想状態としての空の世界、生活世界からの、他の世界に依拠しない、純粋な順当な距離。あるいは、絶対に届かない場所。透明度さえも存在しない透明。そこに、自由に行くことが出来れば、もしかしたら、僕には何にも要らないかもしれない。新しいルールを身に付けることではなく、あらゆるルールを捨てること。僕は時々、自分は本当は、生きてても死んでても透明なのに、それを遠回りして、わざわざ言葉や音楽を使って、透明を覗き見しているだけのような気がする。僕は多分、死にたくはないのだ。生活を捨てたくはない。離れすぎたくない。それで、生活の中での、僕の心身や環境の、色合いやバランスに心を砕いている。そこには、ほぼ全てが他人の存在に起因する、夾雑物がとても多い。(さっさと死ねばいいのだ。)それで、僕は透明をしばし脇に置いて、赤や青に焦がれたりする。本当に悟った人は無名であるか死人であるかのどちらかだろう。今すぐ死ぬより楽器を弾きたいとか考えていて、さらにまさにそのようなことを今書いているような僕は、多分、本当は絶対に死にたくないのだろう。それで、赤が好きだとか思う。本当に純粋な人ならば、書くなら書くで、書く以外のことには目もくれないだろう。言葉と透明と白と黒とにどんどん落ちて行って、言葉と、心中するつもりで、傍目には抜け殻のように、生きるだろう。僕は赤が好きで、青に焦がれる、そういう人間だ。その程度の人間だ。



ジャズギターはジャズとは少し別物として聴いているし、クラシックギターはクラシックとは別物として聴いてる。ギターはとても内省的な音を出せるけれど、ジャズやクラシックにあるような、個人の喪失の感覚をあまりうまく出せない、個人の温度をどうしても発揮してしまう楽器だと思う。個人的に抱きかかえられ、柔らかい穴に落ちていくような。だから、ギターだけをどうしても聴きたいときもあるし、逆に、ギターなんか全然聴きたくないときもある。小説にあるような温度に、ちょっと近いかもしれない。ジャズギターはソロかトリオでの演奏が一番いいと思う。大編成の中にギターが入ると、ギターだけが浮いてしまうことが多い。個人の色が強く感じられて、他の楽器とはあまり交わらないからだ。ヴォーカルに似ているかもしれない。登場人物がみんなギターを持ってて、喋る代わりにギターを弾くようなオペラがあったら、ちょっと見てみたいと思う。

朝。死の余韻のような冷たい闇の最後の粒のひとつまで、朝の光が溶かし尽くしてしまったかのように、ひどく無邪気に空が明るい。この頃夜には不安で薬も無くて、死ぬしかないと焦ることが多かったけれど、今朝は朝になってから、僕だけ場違いに夜を身体に溜め込んでいるかのように、身体が重い。夜はよく身体に馴染む。皆の沈黙が僕を層のようにどんどん分厚く包んでいって、その分だけ僕ひとりは、途方も無く遠くに行けるからだ。けれど僕ひとり僕自身の苛つきや空虚感に包まれることもあって、生きることにひどい徒労感を感じて、ひっそりと、本当にひっそりと、消えたくなるときがある。そういうときは、僕が死んでも、朝の陽は僕を許してくれないだろう、という気がする。自分自身にさえも、祝福されずに死ぬことは、誰かにいきなり刺し殺されるよりも、ずっと笑えない。
手近にある何もかもが、神さまが特別大事にオーダーして作ったものであるかのように、すっきりと満ち足りて見えるような朝がある。眼鏡やギターの曲線とか、深海の一部を切り出して削り出して磨き上げたかのような、万年筆のセルロイドの軸の美しさを、いつまでも、いつまでも飽かず撫でていられるような朝、世界と一体化して、受け容れられて、生活が生活のままに、散文から、聖書の一節のようなものに、意味合いを変えてしまったかのような朝、全ての空気の囁きが、まるで僕のためにあるように感じられる、まるで世界全体が僕にだけ語りかけてくれるような、それでいてとても静かな、朝。その朝の間も、その朝の光が過ぎ去ったあとにも、僕は誰にも会わず、ベランダからの空気や土壌や、枯れて萎びて、尚も穏やかな鉢植えや、鳥の声や、いろんなものに手を振って、小さく「バイバイ」を言って、その声に自分でひとりで恥ずかしくなって、微笑んで、それから僕はもう、絶対に陽の差さない、時間から切り離された、本という本を取り集めた、地下の書庫に行きたい。そこでうんと長生きしたい。古い、古い、古い本を読みたい。新刊書だって未来の本だって、本棚の、どこかしらの隙間に、自分の居場所を見付けて、何百年も昔からそこにあったように馴染んで、眠って、安心して呼吸していられるような書庫。僕は僕専任のルリユール職人になって、僕自身の光で、本棚の本のひと文字ひと文字を、乾いて皺のある指先でなぞっていく。本は永遠に古び続ける。あるいはギターを弾いてもいい。沈黙を聴衆として。ロウソクの光だけで花を育ててもいい。ピアノと分厚い帳面があってもいい。少し贅沢になってきた。太陽の裏側にはきっと、白と黒との歌があって、影のように静かに、歌と風に乗せてだけ喋る人たちがいて、その街では未だに、古くて美しいという理由だけでランプが使われていて、そこで僕は僕の窓から、お気に入りの、一番近しいランプを、一日中眺めている。そういうような文章を、帳面にただ一日中書いているような日があってもいい。ラテン語やイタリア語が読めるのもいいな。活字は内面の光で、ロールスロイスの黒よりもずっと高価に、馬よりもずっとしなやかに、グァルネリウスのチェロよりもずっと優雅に、輝いている。活版印刷には拘らない。字はそのまま魔力で、それが言葉であるというだけで、ここでは特別な意味合いを持つからだ。けれど電子書籍はあまり好きじゃない。どうしても静けさが足りないからだ。この手と、囁きと、眼と。それから本棚。
でも僕はそこには行けない。僕が生きているのは、うるさい生活の中で、そこでは沈黙は尊ばれないし、エミリー・ディキンスンのように短い宝石のような詩は、誰も書かない。誰も読まない。チェロもコンサート・ピアノも、ここには無い。あるのはうるさいギターだけ。静かなノートと万年筆と古代の血のようなインクはある。今朝はとても沈静している。もう、身体の自由は要らないくらい。光の王国は、今朝は要らないと感じる。眼が見えなければ、耳が聞こえなければ、もっと静かに、言葉の中を、ぷかぷか浮いていられるかもしれない。この、身体を、破壊したい、酷使したい、と思う。そしたら極限の静けさが、手に入るかもしれない。

もうすぐ昼が来る。すごくくだらないことを書いてる。喜びは果てしなく遠い。眠れば、何か変わるだろうか? それともまた競争や劣等感に、手足から僕の心の旋律までも、縛られてしまうのだろうか? 何処にも行きたくないよ。言葉の世界と音楽の世界を行きたい。そこは、とても、自由で、息がしやすいから……。
僕は僕の文体を、僕が僕を僕自身だと思える旋律を、会得しなければならない。読書が捗ったり、英語の単語を覚えたり、ギターの複雑なコードを覚えたりしていると、人生の、健全な、陽を浴びても萎れない生活みたいなものが、徐々に確固として形成されていくような、歪な瓦礫のように僕の胸に居座った不安が、徐々に思い出の世界に溶けてしまっていくような、消えないものだけが確かにここに居残って、僕には僕の手だけがある、というような、空洞にささやかな小部屋が構築されるような安心感を得られるときがある。けれど眠らずにいると、小部屋は踏み付けるのにちょうどいい、新たな瓦礫のひとつみたいに見える。錯覚し続けるのでなければ、人生なんて得られない。僕はもはや、何も壊したくないけれど、まだ失い足りないのではないか?、とよく思う。永遠……それよりも刹那の放火魔みたいな衝動に身を任せたくなる。自分を切り、関係性を切り、それでも残った、しわがれた言葉だけを、血と共に吐き出したい、それだけが正しい、と思う。
僕は向こう側に行きたい。世界の果ては、同時に世界の中心。全ては膨張している。でも、何に対して? 拡がりとは、点なのだとしたら。物質とは音楽なのだとしたら、そして僕に出来るのは借り物の言葉で、物質の笑みを書き取ることだけなのだとしたら。何がどうだっていい。僕は急いでいる。僕は何にも分からない。僕は生きたいのだ、と思う。僕は磨かれた武器を手に入れるだろう。むっつりした顔でだけ喜びを得るだろう。生活の中で、ピストルを解体しては組み立てて、銃声の中で、秘やかな住み処を手に入れるだろう。読まなければ。書かなければ。言葉を手に入れなくては。生活の記録の中では僕は真っ直ぐに死に向かっているから。音楽を手に入れなくては。ゆっくりと、速やかに、飛び移るために。学ばなければ。……生きなければ。
……眠る。