メディカル・キッド

落ち込むのに、理由なんて要らない。明日、今の医者とは、会う最後の日(多分)で、次の医者に代わるための、軽い手続き、精神の経過の総集編みたいなのをしなくてはならないでしょう。もう面倒なので、あやふやに答えて、病名も、何でもいいから適当に書いて置いてくれなんて思ってる。 ブロンを、買いに行こうか、それともただ飢えていようか。あまりにも飢えてしまった犬は、目の前の餌にさえ口を付けようとしない。生きるのに、飽きてしまいそうで、理由は、理由はありません。「面白くないんです、先生」「何が面白くないんですか」「全部ですよ、先生」。
自分の影に怯えていられるなんて羨ましいですね。飛べるなんて羨ましいですね。無いものは何だって羨ましいな、無いものは。僕は羽なんて邪魔なので、無くなって良かったと思う。少し地獄を歩けば天国があるのですけれど、どちらかというと、天国に着けば、大理石のテーブルと鉱石のインクで、死の算段をしている気がする。去年冷凍保存された僕を、レバーを下ろせば、ざざざーと、それは生臭い場所に滑っていって、圧搾機にかけられるので、でも僕はその寸前に目覚め、地底人として、環境に配慮した、自然建築家として生きることを選び、今ここにいる僕が欲しいのは、暗闇と友達。どちらかを選べと言われても暗闇と友達。
無感動です。ずっと雨の音ばかりを聞いていて、それが無駄なことにも思えないんです。もう、僕が死にたいのは分かったから、せめてそれを忘れさせてよ、と自分に向かって。でも僕はヒューマニティに溢れてはいないので、快活な僕を僕の奴隷とする。煙草を吸うために煙草を吸う。完全に打ちのめされてしまうまで、自分を試す。例えば、あるだけの薬を飲み、あるだけの煙草を吸って、気を失うまで起きていて、あるだけのお金を使って、いや違うな、退屈なんじゃないんです、もちろんそんなんじゃなくて、自分がへらぺったい壁画よりも全然奥行きのない、「例えば僕はこうで」「例えばあれが僕で」が続いて、結局の僕がいないような感じなんです。何を体験しても、それを仮定の僕が持ち去ってしまう。だけど結局僕は僕でしかないことは体験的に知っていて、僕が僕からいくら離れようとも、僕は僕の中心でしか無いことを知ってる。一人称が指し示すものが表層上は代わったとして、それがある主体に依拠している限り、別に僕が君であたしでも、根本的な違いなんてない。だから本当は、僕が生きようが死のうが、どちらでもよくて、僕が知ろうが知るまいが、感動しようが絶望しようが、それは本当にどうだっていいことなのだ。だから、世界にとって僕がどうだとか、世界がどうあるべきだとか、倫理的な面から書こうとは思わない。 ただ明るい火があるだけだ。いや、そんなものではないかもしれないが、あると断言した以上、何かはあるのであろう。我は思わないかも知れないし、それ故我はないかも知れないが、何かがあるのは事実で、それならば、それを暫定的に我としても、まあ、まるで問題はないだろう。着地を夢みたいときは、レディオヘッドを聴けばいい。そう。レディオヘッドを聴けばいいんだ。