生きてきたこと:Part 2.1

 死のうと思ったとき不思議な感動が身体を包むときがある。僕は誉められた人間ではなく、悪いこともいっぱいしてきたのに、全てが、許されてしまうような。その感動が欲しくて、僕はときどき何もかもを捨てて、死のうと思うのかもしれない。

《1》
 わくわくするときがある。僕は、それでも、まだ若いということに。今までの人生、僕は徹底的に自分をスポイルしてきた。小学校だけは行った。中学は一年、高校は半年、大学は一年、通った。19歳で大学から実家に帰ってきたとき、もう僕は終わりだと思って、何もかもを捨てた。自分の写真をアルバムから引き剥がして、ネガも含めて全部切り刻んだ。ちょうどネガを切っているとき、友人が家に来て、ひたすらにやにや笑いながら、写真を切ってはゴミ袋に入れている僕を、部屋の反対側に座って、彼は僕を見たり、見ていなかったりして、そして、それだけで帰っていった。全部捨てた後、一年間寝込んだ。それからパソコンを買ってもらい、僕は書くことに熱中した。毎日毎日書いていた。何と23歳まで、それが続いた。それでも身体は衰弱し、まともにものも食べていなかったから、やせ細って、絶望する時間が増えた。それから、訳あって、僕は恋人と遠い場所で、二年間一緒に暮らした。お酒を飲んで、どこかいろいろ行ったと思うけど、具体的には、どこか行ったことくらいしか覚えていない。ごめんなさい。でも、彼女といるのは楽しかった。僕は生きていけるのではないか、と思ったし、体重も少しだけ増え、少しだけ僕は多弁になり、いつも190あった血圧が、130くらいにまで下がった。その間、僕ははっきりと覚えているんだけど、「あ、僕は今、駄目になった」と感じた。それは彼女との小旅行の途中、サービスエリアに立ち寄って、窓辺で外を眺めているときだった。僕はいつものように、斜めに座ったり、テーブルにうつ伏したりしていた。急に、「あ、僕はもう子供じゃないんだ」と思った。急に、まっすぐ座らなければならないような気がした。大人として立ち居振る舞いをしなければ「僕は置いて行かれる」と思った。それまでの自分が急に恥ずかしくなった。それから、僕は駄目になった。何が変わった、というのでもないのだけど、僕はすっかり社会に取り入れられた、と思った。もうひとりじゃないんだ、と思った。それは、絶望だった。絶望は絶望で、絶望の中にも希望はある。絶望なりに、生きていくのだ。誰もが、もしかしたら多分、そうなのではないかと思った。僕は僕じゃなくなった。駄目になった僕は、それから彼女に引き摺られるようにして生きていた。実際、僕はひとりでは何一つしなかったので、彼女に物理的に引き摺られなければ、外出も出来なかった。彼女が段々、僕のことを疎ましく思っているのではないかと思ったけれど、僕はもう、誰の気持ちも分からなかった。彼女は、それとなく、別々にまた暮らした方がいいのではないか、と僕に伝えているし、たしか具体的にそう言ったと思う。それで僕は実家に帰った。25歳の時だった。2013年。僕は、それで、何かがまた新しくなるのではないか、と希望を持っていて、少しの間、焦りながらも快活になった。よく外出もした。でも、何にも起こらなかった。僕の心は死んでいて、それで、26歳からのことを、僕は殆ど覚えていない。病院にまた通い始めた。リチウムを出された。ときどきは元気になるので、双極性障害と診断され、そしてときどき幻覚を見るというと、それが統合失調感情障害という長たらしい、躁鬱と統合失調症のハイブリッドみたいな病名になった。生きる気なんて無かった。僕はアル中になり、ODをして、何度も死を試みて、文字通りの廃人みたいになった。廃人になった僕を、父は責めた。「これから一体どう生きていくつもりだ?」と。それに僕は何も答えず、その度に死のうと思った。僕は五年間、殆ど数回しか外出していない。Amazonウォッカを買って飲んだり、後は、あとは多分もうそれだけだった。僕は本当にぼろぼろになっていた。いつだったか、27歳くらいの時だったと思うのだけど、リチウム200錠とウィスキーを一気に飲んだ。致死量の30倍くらいはあった。リチウムの多量摂取はひどい後遺症を残すらしい。気にならなかった。でも、僕は生き残ってしまい、頭がおかしくなり、幻覚に襲われ、ほとんどゾンビみたいだったけど、何故か生きていた。28歳の時、僕は倒れて救急車で運ばれた。廃人みたいだった僕を、その時、父が初めていたわってくれた。僕は感情なんてほとんど残ってなかったけれど、父の態度が、僕を心配するように変わったことは、とても嬉しかった。まだ、生きていこうとは思っていなかったけれど。アル中で、生きるつもりがなくて歯も磨かなかったので、虫歯が増えた。前歯が四本と、下の歯が一本、根元から無くなり、どの歯も脆くなり、歯の折れたところから、常に血が流れていた。というのは、今もそうだ。歯医者に行こうにも、お金がない。おそらく六本の歯をセラミックのインプラントにしなければならないと思うけれど、一本だけで何十万もするという。から、恐くて歯医者には行けない。……五年間の間、僕は指が震え続けていて、文字も書けず、ギターも弾けず、だからもう、ODとアルコールで感情を誤魔化すしかなく、友人が家に来たときも、そわそわと薬とアルコールを次々と口に運んでいたんだけど、友人はそんな僕を、軽蔑しなかった。一年に何度か、彼は思いついたように、僕の部屋を訪れた。僕は実は、もう「嬉しい」という感情が無く、ただそれを申し訳ないと思った。彼は普通に、いつも僕を心配してくれてはいるけれど、別にそれを表にも出さない口ぶりで、ぼそぼそと変わらず話し、僕からは殆ど何も話さず、お互いに黙りがちになることも多くて、でもそれを気まずいとは思わなかった。僕はよく、彼のためなら生きられるな、と思った。僕自身も、彼のことを心配していた。一度もそうとは言わなかったけれど。彼も決して、幸福いっぱいで生きているわけではない、と勝手に思って、それで、彼の幸せの為に僕が死ねるなら……と考えてすぐ、死んでどうする?、と思える程度に、僕は、もしかしたら多分回復し始めていたのかもしれない。彼のことを考えるたびに。僕は実際、倒れた時あたりから、回復し始めていた。家の中で、何もせずに寝ていることを、罪深いと感じなくなったのは父のおかげで、以前はギターを弾くたびに「ギターなんか弾いて……」と詰っていた父が、「ギター、ちょっとうまくなったな」とか言ってくれるようになった。何かと心配してくれていた。去年、2018年の4月、僕は最後の自殺未遂をした。苦しみは胸の中に腐って残留していて、僕はひとりで僕に苛まれる。僕は回復の希望を持ちつつ、やはり絶望していて、未来なんて無いと確信していた。大体僕がこれからどうやって生きていけるっていう? それで練炭と七輪を買って、それを買うとき、Amazonの関連商品に睡眠薬があって、僕は暗く寂しく、少し笑えた。練炭の火は、きれいだった。クローゼットの中で、ちりちり燃える火の小さな光は、僕の最後の光として、悪くなかった。もちろん、僕は死ななかった。今生きているわけだから。死ぬほど頭痛と吐き気がして、炭くさい部屋のベッドで、真っ白な気持ちで横たわっていた。それから、また一年近く、僕は何も覚えていない。でも、アルコールはやめた。というかウォッカをやめた。代わりに毎日ワインを飲んでいるけれど、ワインはそこまで僕の頭を破壊しない、みたいだ。今年の2月、僕は少し、何かをしなければ、というかしたいな、と思い始めた。どうせ死ぬので意味が無いと思っていた勉強や創作を、また始めてみたいと思った。でも指が震えてどうしようもなくて、でももしかしたら、という希望を込めて、リチウムをラミクタールという薬に替えてもらった。効果は劇的だった。僕はODをやめた。リチウムをやめてしばらくの間、一ヶ月ほど、感情がとても不安定になったけれど、そもそもそれまで無かった感情が、やっと顔を出した感じだった。痛みが欲しくなって、ネガティブとは言えど、何かを欲するのは久しぶりで、辛くなると酒を飲まずに、腕を切った。しばらくの間、ハサミやカッターで腕を切っていた。でも、それもしたくなくなってきて、朝起きると、「ああ、生きてる」という充溢した感じを覚えるようになった。倒れた時、僕はてんかんを発症していて、時々、今も倒れそうになる。気を失う。

 そして、3月、4月、生きていて、今は5月も終わりに近い。僕は、自分では信じられない、超人的なくらいと自分を評したくなるくらい、回復した。世界を、美しい、と感じるようになった。
 まだそれは急な変化なので、「変わった」とまでは言い切れない。……五年間、もしかしたら八年間近くの空白を、今は僕は愛している。暗黒、そして絶望を、僕は僕なりに時間をかけて知った。五年間の明日の無さは、今もすっかり僕の骨に刻まれていて、僕の皮膚に乾いた皺を刻んだ。その皺を、僕はとても愛おしく思う。

《2》不幸な世界、鬱
 暗い、希望のひとかけらも無かった五年間を、僕は便宜的に『鬱の期間』と呼んでいる。単に『不幸な世界』と書いても『絶望』と書いてもいいかもしれない。その世界がどんなものか、鬱を経験したことがない人には想像が出来ないと思うし、また、想像できないことの方が、幸せなことでもあると思う。僕の場合は、鬱というよりも、それは双極性障害の鬱の症状で、それは普通の(?)鬱とは大分様相を異にするらしい。また、僕の場合、統合失調症の症状も混ざっているかもしれない。今の研究では、双極性障害統合失調症は、全く別の病気なのではなく、かなり境界の曖昧なものであるらしい。僕はその、きわめて曖昧な領域にいる、ということで、ハイブリッドな病名を頂いているのだけど、まあ、それは極めて不便なことで、鬱と幻覚と感情の完全な鈍麻と強迫観念が、一度に僕の世界を底から空の果てまで満たしてしまう。まあそれも引っくるめて『鬱の世界』と称した方が、話としては始めやすい。人によって『鬱』は異なるけれど、また『鬱』であることで共通する『鬱』の世界観を、僕の個人的な経験から引き出すことも出来るかもしれない。僕は一般論を書く気にはならないし、また、僕の苦しみを引き合いにして、何というか、張り合う気も全然ない。まあ、普通の人生の中には、十分な地獄が閉じ込められているのだ、ということをエンターテイメントみたいにして、今の僕は、過去の自分を楽しみたいし、また、ある程度まで万人に共通するだろう鬱の世界を、ひとつの症例として、また、ひとつ、希望のドキュメンタリーとして、楽しんでくれればいいな、と思う。

 僕は違う世界に住んでいた。きらきらと降ってくるものが昔あった。僕にはもう、何も降ってこなかった。「好き」という感情が何より大事だと昔思っていた。僕はもう、何も好きじゃなかった。
 何が好きなのか、何が好きじゃないのか、本当に分からなかった。音楽を聴いても何も感じない。不安は感じる。本も読めない。読んでも何が書いているのか分からない。好きにもなれないし、嫌いにもなれない。
 ひどくなってくると、言葉を見ると、言葉が音として聞こえるようになった。自分が考えていること、認識していることと、外の音の区別が付かなくなっていた。「あ、動くな」と思うと、あらゆるものが動いて見えた。自室のドアの前に信楽焼のタヌキを置いていたんだけど、部屋に戻るたびにタヌキが直線的にすいすい動くので、嫌になってタヌキを捨ててしまった。部屋にポスターを貼っていた。ラブライブのポスターだ。まるで死体みたいに見えた。何故か僕はそこに描かれているキャラクターを声優の名前で覚えていて、しかも、声優の名前を間違えて覚えていた。冷静になれば、ちゃんと名前を言えるのに、何故か、キャラクターを見るたびに、違う名前に「見える」のだ。それから、あらゆる服が人の抜け殻に見えた。死体を見る不気味さに見えた。僕は気が確かであることを確かめるために、よく知り合いの名前を思い出そうとした。なのに、誰の名前も思い出せない。友人の存在が出てこないときもあった。僕はときどき起きたままで悪夢を見ていた。地球の中からランダムに何十人か選ばれて、殺しあいのゲームに参加するのだ。僕はときどき、本当に殺しあいをしていた。そしてそれがおかしいとも何処かで思っていた。僕は眠ろうとした。僕の腕を強く掴んでいる誰かがいて、目を開けると、それは僕の反対側の手だった。あるときラブライブのポスターを見ていると不意に「そうか! 小室哲哉ニック・ドレイクは親戚なんだ!」と閃いた。何故かというと、同じコードを使って曲を作っていたからだ。何故こんな簡単なことに気付かなかったんだろう? 僕は友人に電話するか、論文を書こうと思った。何故ならそのことに気付いたのは僕が初めてだからだ。なのに急にその確信はゼロになって、僕は自分の頭がおかしいと確信し、自尊心がまた砂の城みたいに崩壊した。
 幻聴は恐かった。よく、自分の名前や悪口が聞こえる、というけれど、僕の場合は、僕に全く関係の無い音や声を聞くことが多かった。まず、音と自分との距離感が分からなくなることから幻覚が始まることが多かった。例えば外で子供たちが遊んでいて、初めはそれが外の音だと分かるのに、目を瞑っていると、自分の隣で子供たちが笑っているように感じる。鳥の声が部屋の中から聞こえる。特に恐かったのが入浴で、水の音に囲まれていると、それがいろんな人の、僕には全く関係の無いお喋りに聞こえて、身体を流れる水が、全部人の声に聞こえた。シャンプーのとき、目を瞑っていると、僕は人のお喋りと、視線と、眼球に囲まれていると感じた。まるで雑踏の中で、ひとりだけ裸になって晒されているのと同じだった。
 幻覚が起こらないときはひたすら自分を駄目だと思っていた。絵を見ると吐き気がした。ヘッドホンを付けると、周りの音が聞こえない、ということが恐く、内に閉じ籠もることが全然出来なかった。部屋にいると、ドアから誰かが入ってくる気が常にして、目を瞑っていると、いきなり殴られるような気がした。気配や音を感じるたびに、飛び上がるくらい驚いた。それなのに、本当に親がドアを開けると、僕は最初気付かなかった。数テンポ遅れて気付いて、そして、いつも息が止まるくらい驚いた。ヘッドホンを無理して付けているときは特に驚いて、ヘッドホンを毟り取って壁に投げつけたり、椅子から転げ落ちそうになった。
 いつも大体吐き気があった。椅子に座り続けることが出来なかった。平衡感覚が失われて、いつも身体が傾いているか、回っている感じがして、椅子の上でバランスを取れているのか分からなかった。横になっていると、眠る瞬間に意識が途切れるのが恐くて、だからいつもお酒と薬で気絶するように眠っていた。お酒と薬無しだと、眠りに入る瞬間に、何かとんでもないことが起こった気がして、声を上げて飛び起きてしまう。悪いことの方は、夢の奥へ消えていく。でも、ときどきは悪い夢の中で目覚めるときがあった。部屋の中にまざまざと人の気配を感じた。金縛りと同じだ。僕は起きていると思っている。そして実際起きている。起きているけれど眠っていて、近くで誰かが僕を見ている。悪意のある目ならまだ処しやすい。見られているというより、観察されているような感じ。カーテンの隙間やベッドの下から、宇宙人の黒目がちな眼でじっと見られている感じ。
 鬱状態の方はほとんど身体的だった。老人が滑らかに動けなくなるのは、筋肉の問題というより、ドーパミン不足が原因であることが多いらしく、今では腰痛の老人に抗鬱剤が出されたりする。僕はあまりに疲れていて、座っていることも横になることも苦痛で、だから結局のところやっぱりお酒と薬だけで生きていて、ますます脳を悪くしていた。感じるのがとにかく嫌だった。悪いことしか感じないから。
 そんな世界に住んでいるのに、しかも親には、甘えるなと説教され、自分では自分がまともでないと思いながら、だからこそ、人にはまともなふりを続け、ちょっと元気が出てくると自殺しようと思い、不安と恐怖の中で、少しの願望だけは針のように強く残り続け、何かを求めて、音楽を我慢して聴いてみたり、本を少しだけ読んでみたり、少しでもまともなことを、書こうとした。

 けれど、こうやって書いているけれど、本当はひとつひとつの具体的なことが恐かったわけじゃない。
 書けないところ、感情の飛べなさとか、いつもひとりになれない感じ、寝ても覚めても疲れてる感じ、それから愛着心の欠如、それから、そう、個人的な感情を失う代わりに、異常に社会的な文脈に過敏になる感じが、とても辛い。

 こちらを向けて置かれたサングラスを恐いと思った。そして、それが恐くない人は、逆に何かが足りないのではないか、と思った。実に自然にそう感じるように思うからだ。僕は自分の服がださすぎるし、見た目も悪すぎて、外に出られなかった。必ず人に不快感を与えると思ったから。夏は、僕は自傷痕がひどくて半袖を着られないし、長袖を着ていたら、暑苦しく見えていけないと思った。外に出ると、看板がどれも悪趣味に思えた。それは人をだますために建てられている。そのことが無意識に表れている、と思った。「無意識に」というのはノイローゼのときにはよく思ってしまうことで、例えば音楽は、殊にデジタル音源は、無意識のうちに、頭に悪影響を与える。そう、例えば基準音が440hzであるだけで駄目だというではないか。本には無意識的に悪意が表れている。それが、僕には見える。本の表紙を見れば、それが既に毒々しい顕示欲に満ちていることが分かる。全ての既製品は、売ることしか考えていない。そういう製品には愛が無い。人は、肉を、殺して食べる、悪い存在だ。それを悪いと考えていない人々は、良心がいかれている。僕には空気の流れが見える。僕には人の感情が見える。僕にはもののいい悪いが明確に分かる。だから僕は元気に生きていける、正しく生きていける。そうやって、寧ろ、妙に堂々としてしまうときもあった。けれどやっぱり、夜は眠れなかった。いくら堂々としていて、自分のことを勘定に入れないでいても、身体は段々疲れていき、不平を言いたくもなって、その内には自分が被害者だと思うようになってきた。けれどやはり、全体として、僕はどこかがおかしいと考えていたし、しかしそれは僕の知性と勇気の欠如の問題で、僕の感情の問題だとは考えなかった。僕は、「正しく」生きようと思っていたけれど、その実怯えていただけだった。絶対に人に不快感を与えないように、と怯えると、むしろもっと不快な存在になってしまうのではないか、きっとそうだ、というジレンマに陥っていた。「別に、人に不快に思われていいじゃないか」と考えないわけではなかった。「僕が」僕自身と、他人のことを不快に思っている、ということが問題だと思った。今度はすると、不快なものをわざと見よう、と考えざるを得なかった。本当は、いい悪いとか、快不快なんて、僕の幻想なのだから、と。何に対しても鷹揚に、中立であろう、と考えた。けれど、不快なもの、例えば絵を見たり言葉を見るとやはり苦痛を感じるし、不快なものに対して慣れてくると、自分が悪趣味になるのを感じた。好き嫌いを無くせば、全て好きになれるわけじゃない。全てに対して鷹揚で中立であることは、実は鷹揚でも中立でもなく、逆に、自分の感情にさらに強いバイアスをかけていくことに他ならなかった。でも、全部嫌いであって生きづらいよりは、全部好きでも嫌いでも無い方が、まだましな気がした。結局、感情の問題だったと思う。好きなものはひたすら好きで、それに惹かれて、嫌いなものは、別に、嫌いといえばそれで済むことだったのに。でもそれが、一番難しく、僕は「惹かれる」という感情なんて理解できなかった。分からないものがあると不安だった。好き嫌いが無い、ということを認めたくなかった。だから、何に対しても、とりあえず一言何かを言うようになった。「独特だよねえ」とか「愛があるよね」とか「これは駄目だ。感情が籠もってない」とか、絵も本も、自分が集中して見もしないで、ぱっと見て、あるいはじろじろ見て、何か一言言える点だけを探していた。そしてそれが、よく見ることだと思っていた。無心、というものがどこにもなく、何も感じてなかった。生きてて、それではつまらないと、自分でも思ったけれど、僕が適当なことを言っていると、みんな適当なことを言っているように思われてきて、人生なんて、大して、こんなものに過ぎない、と感じて、それでも自分に何かが欠けていることだけは確信していた。本当は違うのだ、本当は僕はもっと楽しめるし、本当は僕はもっと楽しい存在なのだと、恨みがましく、卑屈にもなって、いつも何かが決定的に折れてしまったような気持ちでいた。

《3》幻覚、妄想
「自分はおかしいのかもしれない」と自分で意識することが、本当におかしくなることの前兆だ、と言われることがある。フィリップ・K・ディックもそう書いていた。だとすれば「おかしいかも」と思うことと、本当におかしいことの境目は、どの辺りにあるのだろう? 僕は外面的にはまともに見えたはずだ、と思う。何か生きづらそうに見えたとは思うけれど、耐え難い苦しみに常に苛まれているとは、誰も思わなかったと思うし、そう見えないように努力していたから、病院送りにはならなかった。けれど「自分はまともなはずだ」という意識が病気の更に進んだ段階であり、本当に頭がおかしい人は、決して自分が狂っているとは言わない。だから、今現在の僕が、まさに狂っている、ということを、僕だけが知らない、ということも有り得るかもしれない。けれど、自分がおかしいのか、それとも周りが全部おかしいのか、の二律背反にならなければ、どんな状況にあっても、まずまず正常(というか冷静?)にいられると思うし、正しいかそうでないか、とか、何が正しいのか、ということは実は生きていくのにそんなに重要ではないし、第一殆どのことはただ言葉で正しいとかおかしいとか言っているだけであって、言語以前には正しいもおかしいも存在しない。それに、正しさという概念は決して一定しない。人殺しはいけない、という当然常識的みたいなことだって、戦時には曖昧になるし、死刑囚は殺してもいいことになっている。どうしても踏み越えてはならない倫理というものは、明文化されない。よって、僕がここで、僕自身がおかしいのか、そうでないのか、書くことには、大して意味が無い。
 かと言って、では、統合失調症は考え方の問題なのか?、「正しさ」という概念に捕らわれなければ罹る病気ではないのか?、と言われれば答えは微妙だ。鬱の場合は答えは決まっていて、鬱は考え方の問題ではない。それは容赦なく幸福な人をも捕らえる。
 本当の統合失調症患者は、周りが狂っている、と本気で言い始める。僕はそのことを知識として知っていたから、自分が狂っている、ということにしていた。けれど、そういう考え方が出来る程度に、脳内に余裕があった、とも言える。「人に考えを盗まれた」と「思う」ことと「人に考えを盗まれた」と「言う」ことには生活上、大きな違いがある。僕の祖母がかなり典型的な統合失調症で、病識が無く、常識から段々ずれていって、最初は実在する人物にストーキングされていたのが、大規模な集団に付け狙われるようになり、近頃では生き霊だか念波だかに四六時中襲われているらしいのだけど、あまりに自然にそのことを話すので、最初は誰も病気だとは思わなかった。祖母は大真面目に警察に被害を訴えていたし、警察ににべもなくされると、玄関に監視カメラを付けたり、常にカメラを持ち歩いて、自分を付け狙う人物や集団を撮影しようとしていたのだけど、近付く人をみんな撮影していたために怒られたこともあったし、集団の構成を祖母は大体把握していたのだけど、あまりに周到に、祖母にだけ気付かれるように活動していたので、誰も相手にしてくれなかった。集団は何のために活動していたかというと、祖母が苦しむのを見て楽しむためらしい。日本全国何処に行っても必ず付いてくる。それで、最初は家の中にいれば、集団は外で物音を立てたりするくらいだったのだけど、その内屋根裏に上って、祖母に悪い念を送るようになったし、霊になって祖母を身体的に苦しめるようになってきて、それでも祖母はもちろん自分が病気だとは思っていなかったし、時々はけろりとしていた。けろりとしていて、さも当たり前のことのように集団や生き霊について話すので、とても妄想には思えない。でも、段々苦しんでいる割合の方が増えてきて、いつも霊が自分を圧迫して苦しめる、と言っている内に認知症になって、今は母の顔も忘れているらしいけれど、霊の方は去ったのか、去っていないのか、僕は知らない。僕には祖母の感じが少し分かる。気の毒に思う。祖母は、多分、今思えば、最初に誰かにストーキングされている、と言っていた時点で、病気だったのだ、と思う。いや、もしかしたら、最初の最初は、本当に被害を受けていたのかもしれない。統合失調症に縁のない人から見れば、何処かの時点で「いや、自分がそんなに大規模な集団に狙われる訳がない。つまりこれは私の妄想なのだ」と判断できるだろう、と考えるだろう。でも、世界は事実として、そんなに確固として出来ている訳じゃない。統合失調症患者には「事実として」おかしなことが起こっているのだ、と僕には想像出来る。僕は、夜中、外で喋っている少年たちが、何故か僕を殺す計画を立てていることを、はっきり聞いたことがある。それは、本当に、起こっていたことかもしれない。夜中、いきなり少年たちに殺される人が、この世に全然存在しない訳ではない。でも僕は、それを幻聴だと思った。疲れているのだと思って、薬を飲んで眠った。でも、僕には、確かに、事実として、それが聞こえたのだ。それを自分の病気だと判断する方が、実は自分にとってとても不自然なことだ。あと、僕は自分の考えが盗まれていたことがある。ある、長い散文を書いた後、気晴らしにネットサーフィンをしていたら、驚いたことに、どのサイトのどの文章も、僕の考えを盗んで書いたものだった。僕はよほど「僕の考えを流用するのは構いませんが、僕にひとことそう言ってくれると助かります」とどの人にもメールを送ろうかと思った。常識的に考えて、僕のサイトを見ている人の数は多くないし、突拍子も無い考えなんて滅多に存在しないから、どのサイトに書かれている文章も、大体僕の考えの範疇にあることは、当然のことだ。考えなんて盗まなくても、大体似通った論旨にはなる。人が考えることって、そうそう大きく変わるものじゃないから。でも、そのときの僕には、それが全然分からなかった。だって、どう見ても、確かに、僕の考えをまるまる剽窃しているのが、明らかなのだから。そのとき僕は、もともと日常空間とは大きくずれた、妙に平面的な世界にいる。その、妙な世界、が、頭のおかしい世界なのだ、と言うことは出来る。僕は、僕の考えが盗まれたことを確信しつつ、しかも自分の状態をおかしいと感じていた。僕は今、違う世界にいるのだ、と考えた。それで、やはり薬を飲んで眠った。起きると、そんな馬鹿なことがあるものか、何を考えていたのだろう?、と当然のように思った。つまり、僕は、妄想を抱くことがあったのだけど、そこから自力では抜け出せずに、いつも薬に頼っていた。薬抜きではおそらく、その間違った確信から抜け出すことが出来なかっただろう。祖母と僕の違いは、「自分がおかしいかもしれない」と少し思ったときに、病院に通っていなかったことだけかもしれない、と思う。もちろん、長期的に見れば、鬱にしても、統合失調症にしても、躁状態にしても、出来るだけそうならないように、例えば生活習慣を変えたり、個人的な世界観や、自他の認知の仕方をフレキシブルに保つことは出来る。しかしそれでも、頭って、時々急におかしくなる。それは本当にどうしようもないものだと思っている。僕は半信半疑ながら、相当胡散臭いとも思いながら、精神科に頼っている。何故なら、精神科の薬が、効くと感じてきたからだ。癌と同じで、精神病も、心の病ではなく、脳という臓器の問題だ、と考えていた方が、今のところ、話が通じやすいし、じゃあ脳を治すにはどうすればいいか、という話に、心の病や認知の病、という曖昧な病気を、単純に置き換えることが出来て、しかもそれが今のところ、効果的なので、いいことばかりな気がする。もちろん、脳という器質の問題が全てではない。けれども「ストーカーなんて存在しませんよ」と何百回言い聞かせるよりも、精神科の薬を服用させる方が、ずっとずっと効果的だとは思っている。それで不安が薄らげば、仮にストーカーが消えなくても、「まあ、放っておこう。私が苦しまなければ、相手も飽きて去っていくだろう」くらいには思えるようになると思う。それが妄想であっても、現実(?)であっても、別にどちらでもいいのだ。自分が苦しくなくなりさえすれば。祖母は真面目に闘っていた。僕は不安に彩られた世界の、この世ならざる感じを知っている。祖母はずっとそこにいたはずだ。今も、いるかもしれない。僕は祖母を気の毒に思う。大真面目に世界と闘っている人に対して、僕に出来ることは何ひとつ無い。祖母の世界を肯定しても、否定しても、祖母の世界観を補強することになるから。不安を和らげてあげることが少しでも出来ればよかったのだけど。僕が祖母の家に泊まったとき、それは十五年前のことなのだけど、初め祖母はたいそう喜んだ。「夢みたいだ」と言った。夜になると、祖母は「家と家の狭い隙間にストーカーが入り込んで、ほら、壁を叩いている」と言った。僕はそれは風の音にしか聞こえなかったのだけど、祖母があまりにきっぱりとそう言うので、段々、そうなのかもしれない、と思えてきた。日を追うごとに祖母は不機嫌になって「頼むから帰ってくれ」と言い始めた。僕という若い男が祖母の家にいることが近所中に知れ渡って「注目の的」になっているという。僕はそんなものかな、と思って帰ってきたのだけど、僕の存在が重荷になってきたのを、はっきりと僕のせいにしなかったのは、もしかしたら、それは一種の優しさと呼べるのかもしれない。霊が身体を這い回ったり覆い被さったりしているとき、母が祖母の背中を撫でてあげると、祖母はさらに苦しむらしい。その感じも、僕には分かる気がする。僕が本当に苦しかったとき、母はもちろん一緒に苦しんではくれなかったし、どちらかというと僕の病気に対して不機嫌であるように、僕は感じたからだ。でも、母のその態度が、実は最善だったのだ、と今なら分かる。親身になったり、一緒に苦しんでくれたりしたら、僕は寧ろ、病気の一番悪い状態にどっぷり嵌まって、抜け出せなくなっていたかもしれない。クールにドライに、薬を飲んで栄養を摂って眠って、「調子はどうだい?」「まあまあ」とか言っているのが、精神病の回復には、一番いいんじゃないかと思う。辛いことだけれど、同情を求めてはならない。

《4》
 幻覚や妄想のことをいっぱい書いたけれど、それは鬱がたいへんひどいときに一時的に起こるものだ。けれど、鬱状態そのものについて書くのは、とても難しい。きらきらした感情、本を読んで、お腹が温かくなる感じ、音楽に満たされる感じ、生きていくのに大切な、僕の個人的な感情、それらが全て消え去ってしまう。もう、それらは消滅、崩壊し尽くされたもので、戻ってくるなんて、期待してはいなかった。あるとき、僕の中に奇跡のように温かい感情や、光を感じて、そのことが僕には不思議でたまらなかった。嬉しいと同時に、また、一時的に良くなったように感じることは今までにもたびたびあったことなので、その光や熱も、ほとんど錯覚かと思う内に消えてしまうのではないかと、不安でもあった。と言っても、本格的に「あれ? 何が起こったのだろう?」と、折れていたものが急にくっついたような、それまでとの劇的な違いを感じたのは、まだたった十日前のことで、だから、またすぐに鬱の底へ落ちていくことも、十分に考えられるのだけど。でも、大丈夫な気がしてる。ページが捲られ、僕にとって鬱はもう記憶でしか無くなりかけているからだ。
 今は、具体的なエピソードを何にも書けないのが残念だ。数年間、僕は部屋から殆ど出ず、内面的な苦しみとの闘いに明け暮れていたから。

 夢と共に生きたい。わくわくする心が帰ってきた。書くことによって、さらに心は温まる。やりたいことがいっぱいある。僕は僕の消失を思い出しかけている。鬱やノイローゼは、自分が自分であり過ぎることだ、と一面的には言える。イメージは脳内に溶けていき、僕は人生という、光降る空間を、消費していく。柔らかな、また骨張った指先で、僕は自分が花であることに、全力を捧げることが出来る。僕は、帰ってきたのかもしれない。おかえり、世界。

おかえり、感情。僕は生きていくだろう。

(2019年5月25日)