日記

2月28日(日)、
午前1時、眠れない。チルアウトを飲んでみる。

午前2時。音楽があるって何て幸せなことなんだろう。フェラ・クティルー・リードジェイムズ・ブラウンを聴いている。リズムが美しい。

午前3時、お腹が空いたので、昨日の残りの、豚肉の生姜焼きと、ゴボウの味噌漬けとご飯を食べる。両親はいつも寝るのが遅いのだけど、今日は何とまだ二人とも起きている。何かあったのかと思った。

午前7時、お腹が空いたので、牛肉の缶詰めとご飯を食べる。

午前10時、またもお腹が空いたので、冷凍のパスタを食べる。頼んでいた荷物が、何故か近くの集荷場で保留中だったので、電話を掛けたら、今持ち出していると言う。それからまたトラックの運転手から電話が掛かってきて、お届けは昼過ぎになりますと言う。電話はすごく苦手だ。がんばった。

午後1時、何となく落ち着かない。とても眠いのだけど、よく眠れない。

 

3月1日(月)、
唐突に声のこと。やっぱり楽に地声で出せるのは、中音のミ(E4)までだ。ミでも少しきついかもしれない。無理してもファ#が地声と裏声の臨界点。ファ#がたくさん出てくる歌を地声で歌い続けると、すぐに喉がやられる。ジョン・レノンの‘Isolation’がちょうど、ファ#のシャウト気味の引き延ばしがあって、そのあとファ#が頻発するフレーズが続くのだけど、ジョンは果たして地声で歌っているのだろうか、それとも裏声を地声に近付けて(いわゆるミックスヴォイスで)歌っているのか、判断が付かない。ジョンは一見そんなに歌唱派ではないのだけど、ミックスヴォイスの出し方が異様に上手くて、殆ど地声と区別が付かない声で、スムーズに高音が出せる。ジョンは地声が低くて、声域としてはバリトンだと思うのだけど、バリトンの声のままでファからラの辺りを歌うのは、本当に難しいことだと思う。ジョンはヴォイス・トレーニングを一切受けたことが無いし、その必要も感じない、とインタビューで答えていて、けれど、多分、おそらくだけど、自分の声の出し方には、かなり意識的だったのではないかと思う。ジョンが自分の声を嫌いだったことは有名だけれど、嫌いなりに声をよく加工したり、一番自分の声質を生かせる発声をしたりして、楽器としての自分の声を模索し続けていたのではないかと思う。僕は声変わりしてからというもの、さっぱりミックスヴォイスの感覚が分からなくて、ソくらいまで無理して地声で叫び気味に歌って、すぐに喉を壊してた。もっと高いシャウトも、全部地声で押し通してて、ほぼ一曲で駄目になってた。もしくはへろへろした裏声だけを使ったりとか。これからは、もう少し、僕なりに、がむしゃらに歌うだけじゃなくて、もっと声を繊細な楽器として捉えて、自分の声を最大限に生かせるように努力しようと思ってる。あとは感情。言葉でもそうなんだけど、感情と技術の関わり合いって、かなり強い。戦々恐々としながら書けるものなんて無いし、歌えない。完璧な今の自分を生きること。全てをやわらかく受け入れること。液体のように。

たまにテクノを聴いていて、アーティスト名が‘ID’と表示されていることがあって、何かと思ったら‘Identification’の略で、未リリース曲やアーティスト名不明の曲などに一応付けられる、仮のアーティスト名みたいなものらしい。普通に‘Unknown’とかの方が分かりやすいのにな。テクノの用語って、いちいち格好良くて面白いのだけど、知っていないと何のことやら分からないのが多い。‘Mix’と‘Remix’は分かるけど‘Flip’って言われても戸惑う。‘Flip’は、リミックスをさらにリミックスした曲、という意味らしい。

午後6時、久しぶりにかなりの集中状態に入れそうだったのに、母が部屋に入ってきて、荷物運びを手伝ってくれと言ってきたので、また意識が散漫になってしまった。実家暮らしの仕方ないところだ。2月は何度か集中した状態に入れた。散発的に、何時間かずつ。でも、まだ十分じゃない。まだ外面的な緊張や不安が、少し残っている。完全には、内面的になれていない。10年前までの3年間か4年弱の期間は、ほぼいつでも、すとんと創作モードに入れた。けれど、全く集中出来なかった10年間に比べれば、先月は何度か「モード」に入れ(そうになっ)ただけでも、かなり回復していると思う。「モード」についてはうまく言語化出来ないけれど、僕がずっと行きたくて、行けなかった場所。ずっと、そこにいられたらいいんだけど。僕なりの(そこに行くための)方法論はある。まだその方法論は、何しろずっとそこに行けなかった訳だから、全然整っていないのだけど。持ち物を全部捨てればいいのかと思っていた時期も長かったけれど、どうやらそうでもないらしい。ノートパソコンを買ったのは正解だった。あと、新しいヘッドホンのイヤーパッドも、集中状態に入るのに、かなり貢献してくれている。音楽は必須。

 

3月2日(火)、
爪が少し伸びると、キーが叩きにくくなる。かと言って爪が短すぎると、ギターのアルペジオがうまく弾けない。いつも微妙な長さに切っているのだけど、なかなかシビアなので、爪切りが少し職人技みたいで面白い。同じ爪切りを、もう10年近く使っている。SUWADAという会社の、とてもいいニッパー式の爪切りだ。とてもよく切れるのだけど、切った爪がたまにどっかに飛んでいくのが少し難だ。それにさすがに切れ味が、ほんの少し鈍ってきたので、そろそろ研ぎなおしを頼もうかと思ってる。SUWADAは、多分有料だと思うのだけど、刃が鈍ってきたら研ぎなおしてくれるらしい。一生使えるかもしれない。

昨日は昼に、タラのムニエルと、菜の花の漬物と、タマネギのバター焼きみたいなのと、ご飯を食べた。それから夕方に菜の花の漬物でご飯を食べて、夜は母が買ってきてくれた、コンビニのおにぎりを2個食べた。ひとつは250円もする、すだちぶりの何とかというやつで、まあ味はネギトロに出汁がきいて少し高級になった感じ。もうひとつは、普通の明太子味。

昨日の昼頃からすごい風だ。今は、日付が替わったばかりなのだけど、隣の家が吹き飛びそうなくらいだ。風は、好き。ただ、停電になると困るのだけど。

自分を変えたい。何にも変わらないでいいと知ってる。でも、変わりたい。

今日は一日中、調子が上がらず、だらだらしていた。だらだらすることが好きなときもあるのだけど、今は本当に嫌な気分でだらだらしていると思う。

 

3月3日(水)、
日付が替わった。動悸の一歩手前。

昼、言葉って面白いな、と感じる。言葉は世界そのものを描けはしないけれど、世界の見方を変えることは出来る。

映画(『シャイニング』)を見る。映画を見るのは久しぶりだ。何ヶ月か前にスプラッタを見て以来か。『シャイニング』はもう何度か見ているのだけど、ところどころ忘れていて、なかなか楽しめた。

夜、昨日から徹夜していたまま起きているので、とても眠たい。でも眠るのが勿体ないし、眠れるか分からないような感じだ。

よく眠ろう。明日からは活動的になれそうな予感がある。今はこのざわついた頭の中のノイズを止めなくては。この頃、疲れると殆ど必ず口内炎が出来るし、さらに疲れると蕁麻疹が出る。無理せず進んで行こう。
おやすみなさい。

日記

2月22日(月)、
午前3時、さすがに眠くなってくる。

午前4時、寂しい夜を、汽車は通る。眠れない。寂寥感。少し危ない感じだ。

午前9時、眠れない。

理屈はしっかりしているつもりでも、不安が取れないのはどうしようもない。

今日は、半日ほど、生きていけないかもしれない、という感じがあったけど、夜になって、前向きな気持ちが戻ってきた。

 

2月23日(火)、
未明、ひどく孤独な気分だ。不安。神経が弱っている。

ひとりきりの夜中を孤独に押しつぶされずに、どう切り抜けるか。

静かな時間に聴いてみると、アンドラーシュ・シフの弾く『ゴルトベルク変奏曲』も、とても良く聞こえる。静かな気持ちには合うのかもしれない。ライヴならではの心地よい集中の持続も感じられる。あまり、自分の好き嫌いを性急に決めつけるのは良くないかもしれない。

ここ数日、久しぶりにコーヒーを毎日飲んでいるのだけど、ネスカフェのコーヒーメーカーで煎れるコーヒーが薄すぎて物足りない。カプセル式なので、濃さを調整出来ない。Amazonで見たら、カリタのコーヒーメーカーが3000円で売っていたので買おうかなあ。どうしようかちょっと迷ってる。友人が来たとき、ふたりでコーヒーを大量に飲むので、買うのも悪くないかもしれない。

夜はまたステーキを食べて、お酒を少し飲み過ぎた。こてんと寝てしまう。

 

2月24日(水)、
今日はひどく不安で、生きた心地のしない日だった。夕方になって、ふたりの知人と栓のない話をして、それから長いメールを何通か書いたけれど、ふわふわした自分の表面で何もかもが行われている感じだった。夜、10時近くになって、ようやく少し、人心地が付いてくる。でも、疲労感がある。

午後10時半、お腹が空いたのでカップ麺(マルちゃん、ごつ盛りちゃんぽん)を食べる。

一日中、お腹の調子が剣呑だった。

 

2月25日(木)、
そうだ、ベッドに寝っ転がったままパソコンで書いたら楽そうだ、と思って、パソコンを枕元に置いて書いていたら、すごく気持ちが良くて、いい感じだったんだけど、急に、今まで聞いたことがない音で、パソコンのファンが回り始めて、パソコンの底面がホッカイロみたいな温度になっていたので、急いでパソコンを机の上に戻した。ファンは数分間回り続けていて、壊れてたらどうしよう、と思ったんだけど、やがて静かになった。寝ながらだと、すごくいい文章が書けそうなんだけどな。残念だ。

いろんなことがごちゃごちゃと気に掛かる。理屈では、僕はここにいて、何にも足りないものなんてない、って知っているのに。

ピアノの世界って、本当に奥深い。

神経が弱っているのを感じる。前向きな元気が湧いてこない。

午後0時半、ぽかぽか明るいからか、少し楽になってくる。(ちなみに「午後0時」という言い方は存在しないらしい。正しくは「午前12時」。でも正午を過ぎてるから午後だよなあ。今まであまり考えたことがなかった。)

 

2月26日(金)、
昨日の昼から今夜まで、全くパソコンを開かずにいた。パソコンを閉じている方が、何かと集中出来る。英語をけっこう勉強した。フランス語は、しないでおこうと思っていたのだけど、英語の勉強の合間にやると、かなり気分転換になる。しばらく勉強に集中していようかな。何かを書こうと思っても、今はあまり書くことには集中出来ない。少し疲れているかもしれない。でも、言葉はまたいつでも、湧いてくるときはあるだろうから、そのときに纏めて書こう。

言葉に触れているのは楽しい。英語の感覚を段々取り戻して来つつあるし、フランス語は新鮮だ。日本語が出てこないのは困ったものだけど、近いうちに集中モードに入れそうな予感はある。

今日は、まだあまり眠くない。読書をして、勉強しよう。

日記

2月20日(土)、
活字の海に溺れていきたい。日本語と、英語の海へ。フランス語も、出来ればがんばりたいと思うんだ。たくさんの国の海に行ける方が素敵だから。心の底には誰しも、魔法の国があって、明るい、暗黒領域があると思うんだ。

いまだに死にたさが訪れることはあって、やはり次は飛び降りだろうか、と思ってしまったりする。薬でふらふらなら飛び降りられるかもしれない、と思う。けれど、そんな気持ちが出来るなら起こって欲しくはなくて、自然に死ぬまでは、生きていきたい、という気持ちもある。意志としては、生きていきたいつもりなんだ。無意味、空虚、何をやっても実感が無い。でも、時々そこを抜け出せる。

最近僕は、具体的に、井筒俊彦さんが書くような世界に行くにはどうすればいいか考えていて、その鍵は、あくまで僕は僕自身として生きていることにあるのではないか、と思う。誰かより偉い訳でも、劣っている訳でもない。ただの僕自身。

(綺麗に、完璧に、透明に、いなくなるんだ。そう、私は思った。家を引き払いたい。引き払ったお金と、少しの貯金で、……。今ここにあるのは私の身体だけ。雨音が私を包んでくれているかもしれない。ヘッドホンの中の世界は、外界とは無干渉な、私だけのシェルター。壁に血の跡がある。自傷の思い出は透明だけど、血はべたついて、私は私の間違った歴史を修正することが出来ないような苛立ちを、血の跡に対して、いつも感じていた。その血の跡は、今は無愛想なカレンダーで隠してある。)

僕が、僕自身であること。それだけでいい。何も大仰なことを知らなくてもいい。

日本語。英語。フランス語。ドーパミンセロトニン、エンドルフィン。ただ、あるがままに「ある」があって、それだけだ。

僕にとって、死はとても懐かしいものだ。

ただ、生きているだけの緻密な日々。

ただ、一秒一秒を生きていきたい。
僕には経験が足りなすぎる。濃密な、忘れがたない時間も、あるにはあった。
でもここ数年は、鬱で、ひどく疲れてて、ほとんどぐるぐる暗く煩悶していた記憶しか無い。

午前4時、眠れない。お腹が空いたので、カップヌードルとご飯を食べる。

一日中、寝苦しいような気分でいる。

夜は焼き肉を食べる。ビールを飲む。酔って、少し寝てしまう。

 

2月21日(日)、
昨日から現代詩フォーラムで道草次郎さんの詩を読みまくってる。自分の人生に密接している詩が好きで、そしてそこから一瞬の天国を垣間見るような言葉が好きだ。既に全部読んでいるとは言え、もう一度読むと新しい発見があって楽しい。しかしこんなにたくさん詩を書かれていたとは気付かなかった。僕は詩を書いても封印していることが多いのだけれど、それにしてもこんなにたくさんは書けない。ビョークを聴きながら夜の部屋で、ちまちま読んでいます。

午前5時、全部読み終えた。非常に、僕も何か書きたくなった。

午後1時、朝から眠ろうと思いつつ、どうにも寝苦しくてよくない。ここ数日、少し不眠気味かもしれない。

午後4時、眠いのか眠くないのかよく分からない。春めいたいいにおいがする。眠れないので、ボブ・ディランを聴きながら、一緒に歌っている。この頃、身体全体で言葉になれたり、心を込めてギターを弾いたり、歌を歌うのではなくて、歌そのものになる、というのが、どういうことなのか、少し分かってきた気がする。でも、それを実践するのはとても難しい。とても簡単だと言うことも出来るけれど。技術も足りない。でも、今、僕は僕だ、という感触を、段々思い出しかけていて、それはずっと昔、失ったものだった。僕は僕なりに、自分の中のいろんな感情を、とても暗いものから醜いものも含めて知ってきたと思う。今は、今まで経験した全てが、僕にとっては、ひとつも無駄じゃなかった、というか、全ての傷や皺や喜びや嘘や、罪悪感や自己嫌悪も引っくるめて、今ここに自分がいる、という感じがする。
昔、僕は確かに僕だった。歌うときは歌うことに、書くときは書くことに、全てを懸けることが出来た。技術力はとても低かったけれど。音楽の世界。言葉の世界。僕が僕であれる世界。全ての人が生きている世界。全てを愛せる場所。またそこに行けるかもしれない。

午後9時、夕食はタラのムニエルと味噌汁とご飯。この頃、父も母も穏やかだ。僕の心が凪いできたのは、両親のおかげでもあるかもしれない。心、というのか、ぐちゃぐちゃな考えが頭を支配しなくなってきた。何故か身体は、ストレスを感じている。血圧がとても高いのを感じる。でも血圧が高い方が頭も身体もよく働く気がする。それとも、順序が逆で、血圧が高くなったから、ストレスを感じるのだろうか? 母も高血圧で、僕も母も、高いときには200くらいある。副腎皮質ホルモンだったか、何だったか忘れたけれど、精神と言うよりは、内臓の異常らしい。僕は過去二度の検診で、二回とも不整脈を指摘されて、総合病院に行ったことがあるのだけど、異常は無くて、多分ストレスでしょう、と言われた。それはともかく、血圧っておそらく個人ごとに適正値があって、僕は多少高い方が楽だ。緊張感は強まるのだけど、その代わり、とても目が覚める。軽くハイになる。

午後11時、ずっとジョイ・ディヴィジョンを聴いている。自分の心を整理したら、またそれをばらばらにして、心が自然な形を取るのを待つこと。

あまり眠っていないけれど、眠くはならない。もっともっと、一心になりたい。

理性はゆっくりと花開く
若くなったり 老いたり
人はその繰り返しだ
人の人生にも朝があり、夜があり
日の出前には暗黒がある

命を人に手渡し、取り戻し
萎えてはまた雨を受けて
そうして人はゆっくりと
花開いていく

死は開花
死を見るとそこには無数の花が咲いている
あれは皆、昔、人の命だったものだ

花として生きて
花として死ぬだけだ

私はそれでいい

日記

2月15日(月)、
夜中、ああ、やれば何でも出来るんだ、という気持ちになって、読書などをたくさんしていたのだけど、やはり眠くなって、寝てしまった。

 

2月16日(火)
朝まで起きていて、昼前に眠った。起きると6時過ぎで、ぼんやりしていた。薬を飲んで、起き抜けの不安を溶かそうと思ったけれど、あまり、うまく効かない。

夕食はステーキなのだけど、いまいち食欲が無い。

ステーキを食べていると、案外食欲が出てきて、もりもり食べた。悪くない感じだ。お酒をいっぱい飲んだけれど、まだ飲み足りない感じがする。

 

2月17日(水)、
夜中、がぶがぶワインを飲んでしまって、朝になっても頭がずきずきする。ロキソニンを飲む。

寒いと思ったら、かなりの雪が降っている。

午後1時、疲れを感じるので眠ろうと思ったけど、眠れない。昨日夕方まで眠っていたし、お酒の酔いが覚めた後はあまり眠れない気もするし、仕方がないかもしれない。ジアゼパムを4錠飲む。

午後8時半、疲労感が去らないし、眠れもしない。不安になるなんて馬鹿らしいことだと分かっているのに、生きていたって仕方ないという思いばかりが湧いてくる。

夕食は、チーズを乗せたパンを2枚食べる。

 

2月18日(木)、
午前2時、不安。疲労感。

午前2時45分、丸3日ほど続いていた抑鬱状態が、急に少しましになる。

午後6時半、チルアウトを飲む。

夕食は唐揚げを食べる。お酒をいっぱい飲む。

 

2月19日(金)、
午前1時、ジアゼパムを4錠飲む。自分にはもう何にも無いのではないか、という気持ちが湧いてくるけど、いや、今は大分回復してきている、もう少しだ、と思い直す。

午前3時、バッハの『平均律クラヴィーア』を聴いている。グールドの弾くバッハは、とても内向的な感じがする。楽しいというよりは、胸の底にある懐かしさが疼く感じだ。ピアノ演奏は、基本的にライヴ録音よりスタジオ録音が好きだ。ピアノは、孤独な楽器だと思うから。ライヴ演奏だと、どうしても観客の息遣いや空気感が混じってしまって、ピアニストと僕の、密室同士の関係みたいなものが無くなってしまう。

バッハの『ゴルトベルク変奏曲』がすごく大好きなのだけど、長いことグールドの演奏でしか聴いていなかった。アンドラーシュ・シフの書いた本で、グールドが『ゴルトベルク変奏曲』をかなり省略して弾いていることを知ったのだけど、省略抜きのシフの演奏(ライヴ録音、2003年)はあまり好きになれなかった。悪くはないんだけど、聴いていて、すーっと心を奪われるほどじゃない。シフの演奏は、2010年あたり、シフが60歳になりかけたあたりからの演奏が、素晴らしいと思う。それまでのシフの演奏は、どこか曖昧で、毅然としたリズム感が無く、何となくひ弱い、間延びした印象がある。少しもやっとした感じがする。シフは今67歳なのだけど、彼のここ10年の演奏には、何か精神的な変化でもあったのだろうか、とても成熟した、自信に満ちた、それでいて恍惚とするような響きがある。『ゴルトベルク変奏曲』を、ぜひ省略抜きで聴いてみたいと思っていたのだけど、やっぱりグールドの演奏が良くて、なかなかいいアルバムが見つからなかった。最近、ベアトリーチェ・ラナというピアニストが23歳の時に録音した『ゴルトベルク変奏曲』が(グールドには及ばないにしても)非常にいいと思って聴いている。とにかくタッチの抑揚が、溌剌としていて、感情に走ることなく、躍動感と、正確なリズムが、始終きちんとキープされている。若さ故の激情みたいなものは感じなくて、単純にピアノを弾くことの最高の楽しさが、ダイレクトに伝わってくる感じだし、同時に既に老境に達したかのような、深い諦観のようなものさえ感じる。彼女はまだ28歳で、4枚しかアルバムを出していないのだけど、これからの活動がすごく楽しみだ。(グールドが『ゴルトベルク変奏曲』の多くの部分を省略したのは、全曲をレコード1枚に収める為、ということもあったと思う。『ゴルトベルク変奏曲』は、省略無しで弾くと、75分ほどかかる曲で、CDにだとぎりぎり入るのだけど、レコード1枚に収められるのは約50分が限界なので、普通に弾くと2枚組にしなければならない。ちなみにグールドの『ゴルトベルク変奏曲』が51分で、シフの演奏が71分、ラナの演奏が78分だ。)

午前10時、急に楽になる。何だ、生きていればそれでいいんだ、と思う。他人が僕をどう思おうと、それは他人のことだ。僕自身が、他人の言うことを抱え込んで、ひとりで懊悩する必要は無い。

午後2時、Burialの『Untrue』を聴いてる。現実と非現実の狭間の、影の領域で、汚れの無い天使と幽霊が、囁くように歌っているような音楽。
ただ、一秒一秒を生きていくだけだ、って分かっているのに、すぐに不安でいっぱいになって、全く、どうしたらいいか分からなくなってしまう。抗不安薬にとても頼っている。

午後11時半、10時からベッドに入っていたのに、さっぱり眠れない。最近は寝付きが良かったのに、今日はどういう訳か、頭の中が嫌な考えでいっぱいになってしまう。仕方がないので、明日の分の薬とチルアウトを飲む。

調子はあまり良くないけれど、考えはまあまあ纏まってきた。ただ生きるだけのことなんだと思う。まずは元気にならなくては。眠ろう。

詩のようなメモ

全てが遠い。
遠くて、何ひとつ僕を傷付けるものなんて無い。
人たちが何か言っている。それは僕のことであって、
僕のことではない。だって僕は、ここにいて、
ここにいる僕だけが僕なのだから。
何も、感情的に受け止める必要なんて無いんだ。

私は私の静かなねぐらを探している。
私は私の小さな棺を探している。

人に何かを見せるために生きている訳じゃない。

少しずつ、全てが減っていく。
想像の海の中を泳いでいく。
現実という、想像の海。

早く死ぬのがいいのだと思う。
お墓も狭い方がいい。
人類はゆっくりと、滅びるのがいい。
それでも願いは、何処かで息づいたまま、きっと。

みんなが、生きてるだけでいい、ってなればいいな。
生きて、死ぬこと。
生きることは死に続けること。それが、全てなのだから。

誰かにとって価値があるのはすばらしいことだね。
でも誰にとっても価値がないのもすばらしいことだ。
魚のように。
たったひとり泳ぎ続ける。
生きてること、それだけで光っていて、
死んでも消えない光を、みな知っている。

ただ生きて死ぬ。それだけでいい。

『世界が歌であったなら』のためのメモ

僕は、僕なりには、苦しい年月を過ごしてきたと思います。
今は、人生は、誰にとっても、決して楽なものではない、と思えてなりません。
昔は、自分だけが辛いのだ、とばかり思っていました。
真剣に砂遊びをする子供同士みたいに、人と人とが自然な距離で、
いがみ合うことも、嘘を吐き合うこともなく、
親密にいられたら、どんなにいいだろう、と思います。
競うことも、争うこともなく、不安も、恐怖もない世界がきっとあると思います。
音楽、そして詩や小説に、その世界の片鱗を見ます。
歌は、人生の一部なのではなく、まして娯楽などではなく、
本当は歌こそが人生なのだ、とよく思います。
人生や、世界は、ゲームでも暇つぶしでもなく、音楽のようなものだと思います。
世界を解析するのではなく、戦うのではなく、ただ音楽を感じて、歌うように、奏でるように生きること。
文字通りの意味においても、僕は、音楽と言葉を信じています。
世界が歌であったなら。僕はそう願い続けます。
僕にとっては、全ては音楽です。それはただただ流れ、
そこには意味が無く、またそれ自体が意味あるものとして、
感情を乗せて、身体を乗せて、流れ、流れ続けます。
僕はただ流れに流れ、流れを泳ぎ、歌い、奏で続けます。
そしてまた、いつかの砂場であなたに会えたなら、
何にも言わず、同じ陽差しの下で、ふたり同士懸命に遊んでいましょう。
そしてそれにも飽きたなら、ふいに夢から覚めたみたいに、少し微笑み合って、
めいめいのお家に帰りましょう。
そんな世界に歌を感じます。
世界が歌であったなら。そう、僕は願っているのです。

日記

2月13日(土)、
午前2時、何にも面白くなくなる。

アニー・フィッシャーが弾くベートーヴェンピアノソナタは、僕の宝物みたいな音楽だ。

午前3時、菜の花の漬物でご飯を食べる。

一日中、ぼんやりとした不安が身体から離れなかった。集中力が湧いてこない。

 

2月14日(日)、
昨日は一日中、どういう訳か、得体の知れない不安に苛まれていて、ほぼ何ひとつ書けなかったし、読書も出来なかった。ただ音楽だけは聴けたから(何て幸せなこと!)、ずっとヘッドホンを付けて、ロックとかジャズとかテクノとかクラシックを聴いて、じっと踞っていた。

僕はときどき、まだ今は本当にときどきだけど、人のことが気にならなくなる。心の中に、静かな場所が出来てきたみたいだ。

僕にとっては友人の存在はものすごく大きくて、僕は多分メンヘラだったし、けれど、自傷しまくったりODを重ねる僕を、彼が何にも言わずに、でも静かに見守っていてくれたから、僕は僕なりに、安定した心を身に付けてこられた、と思う。

ともかく、日本ではどこのスタジオでも使われているらしくて、日本のミュージシャンのスタジオライブなどを見ると、必ずと言っていいくらい付けている、SONYMDR-CD900STが、昔から、やはり少し気になってはいるのだけど、audio-technicaが気に入りすぎて、買うのをずっと躊躇っている。あと、SONYのヘッドホンは、海外ではMDR-7506の方が主流らしくて、サウンドハウスの説明によれば、ジョージ・ルーカスも映画のサウンド・チェックに使っているらしい。audio-technicaのATH-M50xの海外での人気は、圧倒的で、Amazonでは22638件という、膨大な数のレビューが書かれている。サウンドハウスの説明では、ATH-M50xはフラットな音、と書かれているのだけど、AKGのヘッドホンと比較してみると、かなりビート感重視のヘッドホンだと思うし、他のブログやサイトでも、イギリスやアメリカでは、リズムやビートがすごく重視されるから、SONYよりaudio-technicaが好まれる、と読んだことがある。解像度やフラットさ重視なら、AKGの方がずっと優れていると思う。ただし、かなり分厚いイヤーパッドを装着したときのaudio-technicaのヘッドホンのクリアさや装着感は、個人的には、AKGを上回っていたと思う。イヤーパッドを、純正品の厚さに近いYAXIに換えてからは、とにかく第一にリズムが気持ちいい。でもピアノにもかなり合っていて、つまり中高音域の鳴りの良さも兼ね備えている。そう言えばイヤーパッドを換えてから一度もオーケストラを聴いていなかった、と思って、今ベートーヴェン交響曲第6番を聴いてみているのだけど、やはり音像の広さや解像度という点では厚めのイヤーパッドを使った方がいいと思う。AKGのヘッドホンを一時期使っていて、楽器のアコースティック感や、壮大さや透明感、オーケストラの一つ一つの楽器の聞こえやすさには、驚いた。ただこの前も書いたけれど、僕は狭い空間を感じるような音が好きなので、オーケストラにしても、audio-technicaで聴くのが好きだと思うし、くっきりさには欠けるにしても、低音から高音までのバランスは素晴らしく良くて、何より、音が甘く優しく柔らかく暖かく、やや濃くて心地いい重みのある、稠密な感じのaudio-technicaの音が大好きだ。濃いめの温かいカルピスみたいな、いつもとても懐かしい感じのする音。
あと、ATH-M50xの本当に良い点は、ケーブルを交換出来るところだ。前のヘッドホンも、ケーブルが断線したので買い換えた。SONYのヘッドホンはケーブル交換が出来ない。イヤーパッドにもいろんな選択肢があって、ぼろくなってきたらすぐ交換出来るし、いろんな音を楽しめる。おそらく、純正のイヤーパッドよりも、YAXIの方がいい気がしてならない。純正品がどんなだったから思い出せないので、はっきりしたことは言えないのだけど。

午前8時、一晩中音楽を聴いていた。音楽にとってリズムって、とっても大事なものかもしれない、という内容の散文(『リズムのこと』『身体感覚のこと』)を書いたのだけど、途中で、ひどく憂鬱になってしまって、中途半端になってしまった。例えば、文章を書くときには、タイピングすることの気持ちよさが、かなり助けになってくれていると思うのだけど、そのことも書けなかった。よく東プレのキーボードの打鍵感が至上だ、と言われていて、僕も東プレのキーボードを2台持っていたけれど、個人的にはmouseのノートパソコンの打鍵感の方が気持ちいいし、速く打てる。タイピングすること自体の楽しさが、書くことのモチベーションに繋がることって、けっこうあると思う。

午前10時、コロッケを1つと、冷凍のスパゲティを食べた。海老クリーム味。

午後8時、また徹夜したまま、ずっと起きてる。眠ろうとすると目が覚めてしまう。ここ数日の音楽の楽しさは格別だし、読書もどんどん面白くなってきている。

午後9時、人の中で生きること。同時に、完璧にひとりの時間を確保すること。

午後11時半、鮭とキャベツの卵とじとご飯を食べる。

今、興味があること。全てが消えていくこと。記憶。身体のこと。言葉。音楽。
何て、神秘に満ちていて、不思議な世界なんだろう。

ああ、明日も楽しい一日になりますよう。

身体感覚のこと

イヤーパッドを換えてリズムセクションが聞こえやすくなったから、リズムの重要性を考えるようになった、と言うよりは、僕自身の音楽に対する意識が少し変わった気がする。メロディや音色に感動したり、和音を美しく思ったり、頭で考えて、何て不思議なコード進行だろう、と関心することはあったけれど、つまり感情や思考では聴いていて、音楽からいろんな風景や色を感じたり、ミュージシャンが(もう死んだ人であっても)本当に生きている、と感じることも多かったけど、唯一、身体では聴いていなかった。音楽を身体で感じることが、絶対に必要か、と言えば、別にそうでもない気がするのだけど、身体感覚を援用した方が、音楽と、より親しくなれることが多いと思う。例えば楽譜だけを読んで感動する時には、身体感覚は使わなくていいと思うんだけど、演奏を聴くときには、感情や思考だけで黙々と聴くより、骨や心臓や全身で聴く方がずっと気持ち良くて楽しくて、ときには一緒に歌ったり、身体を揺らしたり踊りながらだと、音楽とずっと仲良くなれることが多いと思う。別に身体を動かさなくても、身体全体で音楽を聴くイメージがあると、頭のてっぺんから、脳の灰白質シナプス扁桃体や、喉や血管や肺やお腹や、爪先の毛細血管に到るまで、そして全身の神経の全てが、音楽に満たされていく感じがして、麻薬よりずっと無重力で快感だと思う。快感って、脳にだけある訳じゃないから。それに、ただ単純に快感なだけでも構わないと言えば構わないのだけど、音楽に完璧に満たされて、音楽と一体化出来た方が、音楽のとても深い場所に行けると思うし、作曲家にもミュージシャンにも、もっと近付けると思う。
聴くときにはともかくとして、演奏は明らかに身体的であらざるを得ない。楽譜を書いたり、ラップトップで音楽を作る方が、あまり身体を意識しない分、精神的と言えるだろうか? でも、芸術家の仕事って、それだけじゃないにしても、やっぱりエクスタシー(の受信と送信)だと思うし、エクスタシーって、脳の働きではないと思う。どちらかと言うと、生きている全身の細胞とかの働きなんじゃないかと思う。身体全体の、神経や、流れる血や、骨や皮膚や、それらの全てが一体となって、例え実際に動かすのは指先だけであっても、そこから流れ出すものは、全身の声だと思う。あるいは空っぽの脳に受信された何か。そのままでは形にならない何かが、身体を通して、身体を満たして、声を得る。個性とは会得された身体。例え、普遍的な着想を得ても、それを形にするのは、個別の身体だから、個性があるのであって、そして人にとって一番楽しいことは、自分の、何から何までを賭した、自らの個性の発揮なんじゃないかと思う。ごちゃごちゃ考えることはきっと、誰にとっても苦痛だし、ぼんやりすることも多分苦痛だ。普遍的な考えを得たと思っても、違和感や不安が去らないなら、それは普遍的な考えではない。心や身体のどこかが、その考えに違和感を抱いているからだ。違和感を無理に抑えようとすると苦しいし、自分自身の分裂をさらに深めてしまう。自分自身の内部が分裂していることは、内戦を抱えているようなもので、それを無視したまま、がんばって創作したとしても、決して満足出来ないし、個性と言うよりは、個人の恨みみたいなものしか表現出来ないと思う。完全に満たされること、自分の心と身体の底から、心と体の全てを込めて表現すること。頭で考えられたものは、個性とは関係がない。何故なら、そこには自分自身の声が含まれないからだ。
(急に元気が無くなってしまって、これ以上書き続けられなくなってしまった。毎日の練習や勉強や読書がとても大事だ、ということを続けて書きたかったのだけど。どことなくネガティブな感じの終わり方になってしまった。演奏について、例えばグレン・グールドが大きな声で歌いながらピアノを弾くのを、アンドラーシュ・シフが「ピアノに歌わせるべきであって、ピアニストが歌うべきではない。グールドはタッチのずれを、大きな歌声で誤魔化している」と批判していたのだけど、僕はどちらかと言うと、歌いながら弾きたいグールドの気持ちに惹かれる、ということも書きたかった。また、元気が出たら、続きを書くか、別の散文を書くと思います。)

リズムのこと

今まで僕は多分、ヴォーカルやリード・ギターやシンセサイザーなどの、いわゆる「上物(ウワモノ)」中心に聴いていた気がする。それから主に中高音域に加えられたアレンジの音などを。例えば、ビートルズにしても初期の、ロックンロールの時代の曲はあまり聴いてこなかった。ビートルズ、と名乗っているくらいだから、ビートルズは、ビート感にとても意識的なバンドだったと思うのに。僕はジョン・レノンのリズム・ギターは本当に好きだけど、それは音が格好いいからで、ジョンの弾くギターの、リズム楽器としての重要性については、あまり考えたことがなかった。ジョン・レノン自身、自分の弾くリズム・ギターがバンド・サウンドの要だ、ということを言っていた。ジョン・レノンの発言なので、本当はもっと格好いいことを言っていて、たしか、「僕はギターが上手い訳じゃないが、僕のギターはバンド全体を、呻らせたり泣かせたり、叫ばせたりすることが出来る」という感じだった記憶があるんだけど。ここ数日、ドラムやベースやギターリフなどの、いわゆる「リズムセクション(リズム隊)」に注意して聴くことが多くて、そうするとイギリスやアメリカのロックが、いかにリズムに拘って音作りされてるか、今までより少しだけ分かったような気がする。ジャズも、今までは多くの場合、サックスとかトランペットやピアノなどの、ソロで目立つ楽器に目が(耳が)行きがちだったと思うのだけど、よく言われるように、ジャズで一番大事なのは「スウィング感」らしくて、それが少し感じられるようになってきた気もする。テクノではもちろん、ドラムとベースがすごく重要な要素だと思うのだけど、テクノも、より楽しく聴けるようになったと感じる。
もちろん「上物」と「リズムセクション」のどちらが大事、ということはないし、日本の音楽がリズムを軽んじている、なんてこともないと思う。一概に日本の音楽はこうで、イギリスの音楽はこうで…、と言い切ることは危険だ。また、「上物」と「リズムセクション」とくっきり分けることも出来ない。全ての音がリズムの要素であり、同時にメロディや和音の一部だと言うことも出来るからだ。でも、聴き手としての僕の意識として、メロディや音色などを重視して聴くか、リズムを重視して聴くか、の違いはあると思っていて、それもくっきりとは分けられないけれど、傾向として、今まで僕はリズムにはあまり気を払ってなかったと思う。リズムによく注意して聴いてみると、今までずっと聴いてきた音楽に、新たな魅力を感じて、音楽がさらに楽しくなったと感じるのだけど、「上物」も、今まで通りよく聴いていて、大好きだ。
今までも、リズム(というかドラム)が特に好きな音楽(例えばジョイ・ディヴィジョン)はあったけれど、曲全体のリズム感はそれほど感じていなかった気がする。少なくとも、あまり意識はしていなかった。音楽の三大要素はリズムとメロディと和音だ、と言われているけれど、僕は、今まであまり、リズムを重要な要素だと思ってなかったと思う。自分でギターを弾くときも、少々リズムがずれても気にしてなかったのだけど、これからはリズムもかなり意識して弾くと思う。僕にはもともとあまりリズム感が無いと思うし、リズムキープの能力があまり無い、と思うのだけど、練習次第で、少しはましになると思う(やっぱりメトロノームを買おうかな)。
僕はこの間まで、例えば、ラモーンズサウンドの魅力があまり分からなかった。ジョーイ・ラモーンの歌声や、キャッチーなメロディはとても好きたっだので、けっこう聴いてはいたのだけど、ドラムとベースとギター一本の、シンプルなバンド・サウンドの魅力は、いまいち分からなかった。簡単な低音のコード(パワーコード)だけをひたすら弾き続け、ほぼ全く高音を弾かず、もちろんソロも弾かないジョニー・ラモーンのギターは、確かに音や、硬派なスタイルは格好いいと思っていたけれど、ジョニー・ラモーンがすごいギタリストだと思ったことはなかった。多くのギタリストに尊敬されているギタリストだと知ってはいたけれど。疾走感や、音全体が脈動する感じや、心地よく興奮した心拍みたいなリズムの持続をあまり感じてなかったし、リズム・ギターなのに、音色の格好良さばかりに気を取られていた気がする。
(この文章に続けて、リズムがとても身体的であることを書きたかったのですが、文体が大分変わってしまって、リズムと身体の関係についてと言うよりは、音楽全般と身体の関係について書いてしまったので、分けることにしました。リズムってとても身体的だ、と言うことについては、また別に書くと思います。)